寂しさの内景
(中山 善雄 教学研究所研究員)

最近、知人の飼っている犬が亡くなった。十八歳四か月という長寿であった。誰にも吠えることのないおとなしい犬であった。小さな骨壺が知人宅の床の間に置いてある。長い介護生活にもかかわらず、知人が老犬に対し丁重に接している姿が印象的であった。
 
それと対比して想起されたのは、私が小学校五年生のころ、生まれたばかりの子犬を友人から譲り受けたことである。小さな頃は、いつの間にか私が通う小学校の校庭に来ていることもあるくらい懐いていた。
 
恥ずべきことであるが、私はその犬に対し、乱暴に接していたことがある。私が手を上げるたびに怯えた目で私を見つめ、それにもかかわらず、その後には嬉しそうに尻尾をふって私に飛びついてきていた。往時のことを想うと胸が痛む。
 
その犬が亡くなったとき、庭に埋葬した。年に一度は手を合わせにいくが、墓所に植えた木が最近、枯れてしまった。荒廃した墓所は、粗末な生き方しかできない自分の心を表しているかのようである。
 
人を信ずることの喜び、愛することの喜びを知らない荒廃したわが心は、力と支配を信仰し、そこに仮初の満足を得ようとする。そこにあるのは自尊心を満たすために利用するか、利用できないものとして捨てるかということのみである。そういう自分の在り方に深い寂しさを感ずる。
 
そのような寂しさを身に感ずるようになったことには、聞法の場でのかかわりが機縁となっている。かつてある話し合いの場で、他者の言葉に対して次々と「あなたはこうだ」というように応答する人がいた。その人に対し、ある先輩が「あなたは、本当に愛されたことがない」と声をかけた。それは、「あなたは人の存在をわかったように切り捨て力を誇示しているが、本当に仏から愛されていることを知らない不信と怯えから、そうせざるを得ないのでしょう」という問いかけであったのだろう。その言葉は私に向けられているように感じられた。
 
仏説無量寿経』には、「もし衆生ありて、疑惑の心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん」(聖典八一頁)とある。疑いゆえにこそ、力という名の功徳を修めて居場所を得ようとする。その衆生は、「常に仏を見たてまつらず。経法を聞かず。菩薩・声聞聖衆を見ず」(同前)と記される。それは、真実に願いをかけてくれる存在とも出会えず、自分を大切にしてくれる友とも出会えない孤独な生を表しているのではないだろうか。
 
この言葉に出会ったとき私は、多くの存在を切り捨ててきた自分の在り方に深い寂しさを感じた。同時に、飼い犬の怯えた眼ざしや、自分が傷つけてきた幾多の存在の悲しい表情が、自らの内によみがえってきた。そしてそれらは、私の不信と傲慢を痛む悲願の表れへと転じられたのだった。
 
時代は変わりゆくが、私に与えられた寂しさと悲しみだけは、見失うことなく生活していきたい。

(『ともしび』2023年1月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

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