愛犬ボン
(三池 大地 教学研究所助手)

愛犬の訃報を聞いたのは、今年(二〇二三年)に入ってからだった。
 
私が中学生のころ、白毛に覆われた愛らしい子犬がわが家に迎えられた。母の命名によって、彼はボンと呼ばれるようになった。
 
一歩進んでは休憩して、を繰り返す子犬の姿を見て、家族は満面の笑みを浮かべながら応援した。大きくなると元気に走り回るようになり、散歩中に競争なんかもした。私の母のことが大好きで、いつも母の側に引っ付いて過ごしていた。そういえば、よく革製品のベルトや財布を噛んでボロボロにして、家族が叱っていたものだ。
 
数年間を一緒に過ごした私は、大学への入学を機に、彼と出会う回数は帰省のときだけになった。帰省したときは、大好きな散歩へ一緒に出かけたり、ご飯を一緒に食べたりして、久しぶりの再会を楽しんだ。
 
それから互いに歳を重ね、ボンはお爺ちゃんと呼ばれるような歳になっていた。久しぶりに会うと、緑内障を患っていた。壁や物にぶつかりながら歩く様子から、視力は低下して、ほとんど物が見えない状態になっていたのは明らかだった。さらに、ケガをしてばい菌が入ったのか、前足の片方は今にもはち切れそうに腫れていた。足を引きずりながら壁にぶつかる姿は、見ていて痛々しかった。そんな姿になっても、毎日ご飯を食べて、大好きな散歩は欠かさなかった。
 
その姿を妻が見て、ポツリと呟いた。「ボンちゃんは、生きなければという思いで生きているように見えるね」。それまで彼の姿を見ても、痛々しくて可哀そうとしか思っていなかった私は、妻の一言にハッとさせられた。
 
私は、〝そんな姿になっても〟生きている犬を、他人事のように哀れに見ていたのである。犬も人も、老いて病を患い、いつかは死ぬ身を生きている。それを分かったつもりになっていた。
 
生きとし生けるものは、老病死する身である。そしてそこには、苦しみが生じる。人間は、老いていく中で寂しさや孤独を感じ、病によって無力さを思い、死への空しさや不安を抱く。そういった苦しみに悩まされて生きている。老いて病気になった彼もまた、どこを歩いているのか不安で、うまく歩けないことに苦しんでいたかもしれない。衰えていく体に私が触れようとすると、いつもビクッと驚き震えていたのだから。
 
介護が必要となった後も懸命に生きたボンは、昨年(二〇二二年)の秋に生涯を全うした。老いて病を患っている状態になっても力強く生きた。それは、生きようとする身と心とが呼応しているかのようだった。
 
彼の示した姿は、老病死する私の身そのものである。それは、この世に生まれたいかなる存在も免れることはない。ただ、この世に生まれたときから、私の思いを超えて、身は生きようと確かに動き続けている。そのことを彼は、身をもって教えてくれた。
 
妻の呟きは、ボンの姿に私を振り向かせてくれた。そのことを想起しつつ、愛犬ボンが生涯をとおして示してくれたことに感謝する。

(『ともしび』2023年6月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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