綽如上人の三男周覚(しゅうかく)(玄真)の一族は、越前・加賀・越中に活動して北国一家衆と呼ばれる活躍を見せていました。

 蓮如上人は、1465(寛正6)年に東山大谷本願寺が破却された後、1471(文明3)年に周覚一族を頼り越前の吉崎を拠点に精力的な布教をするようになります。

 そして、さらに教えを広めるため、周覚の孫である蓮真に現在の石川県と富山県の県境にある砂子坂に寺院を建立するよう願いました。そこで、蓮真は寺院を建立し、蓮如上人を開基とし、自身が第2代になりました。これが善徳寺のはじまりです。その後、何度か移転し、第5代祐勝の時に城端に移りました。

 1481(文明13)年に加賀の守護の冨樫政親の信仰弾圧を脅威に感じた越中の人々は、一向一揆を起こし、政親と結んだ福光城主石黒光義の軍勢を打ち破ります。

そして、善徳寺や瑞泉寺を拠点に、幕府や大名の支配が及ばない真宗門徒の自治が行われました。

 第6代空勝は、1570(元亀元)年から始まる本願寺と織田信長との石山合戦に参加し、本願寺第12代教如上人を支え続けました。この事により善徳寺は江戸時代には越中東方の寺院を取りまとめる立場となりました。また、加賀藩の庇護もあり、東本願寺や加賀藩から贈られたゆかりの寺宝を今に伝えています。その寺宝は毎年7月22日から28日まで勤まる虫干法会で見ることができます。

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