ハンセン病を問う 上
岡崎教区安樂寺前住職 伊奈 祐諦
一、引き裂かれた家族
私の叔父、伊奈教勝は1943(昭和18)年、学徒動員により、学業半ばで軍隊に入り、敗戦を新潟で迎えました。軍隊時代に体の不調を訴えて新潟大学病院に血液検査を依頼し、結果を待たずして故郷に帰りました。その後、あちらこちらの病院を訪ね、医者の診察を受けましたが、どの医者も病名について確たる診断はありませんでした。最後に訪ねた名古屋大学病院にて、「あなたはらいです」と診断されました。
「らい病」は、今では「ハンセン病」と呼ばれていますが、当時は「らい病」と呼ばれ、不治の病として、怖い病気、うつる病気、血筋の病気と恐れられ、多くの人から忌みきらわれてきました。
「らい」と診断された叔父は、その時の気持ちを「大地の底が抜けた」と語ってくれました。本人はもとより、家族、親戚の者も同様の心であったと思います。戦争が終わって故郷に帰ることができましたが、ハンセン病であることを診断された叔父には、もはやどこにも居場所がありません。家族の一員としての生活から一挙に変わって、自分の室に閉じこもる毎日でありました。
二、父・母の深い悲しみ
教勝の父、母も2人健在でしたが、父は厳格な態度で我が子教勝に接しました。母はその父の姿をみて、大変、嘆いたとのことでした。父は、「この病気は大変怖ろしい病気である。しかし、その病気から家族を守らなければならない。お前はかわいい。しかし、病気は憎い」と、涙したとのことでした。一方、母は、「お前は自分を生んだ母を憎むであろう。できることなら、お前と代わりたい。どこまでもお前についていきたい」と、我が子を抱きしめて泣いたとのことでした。
三、岡山県長島愛生園に入所
教勝は保健所の勧奨により、瀬戸内海に浮かぶ国立療養所長島愛生園に悩んだ末、入所を決断しました。1947(昭和22)年10月20日、名古屋駅に6名ほどの同じ患者が汽車に乗って岡山の愛生園に向かい、白衣の職員が案内したのが、国鉄の荷物の出入口でした。後ろを振り向くと白衣の職員が自分たちの通った後を、消毒液をまいてついてきました。長いプラットホームには、沢山の人がいて、奇異な眼でながめていました。この時「らい」の厳しい現実を心に痛く感じ、荷物と客車の連結された「伝染病専用列車」に乗せられ、岡山駅に真夜中に着き、愛生園のトラックに乗せられ、瀬戸内市の虫明に着きました。10月22日午前6時、虫明から小舟に乗って愛生園の桟橋に着くと、白衣の看護師が6名ほどいて、教勝たちを抱き抱えて、園に迎え入れました。「これで私は故郷から捨てられ、私も故郷を捨てたと心に言い聞かせた」と語っていました。
叔父は愛生園に入所を決断する時、大変悩み苦しみました。生きて恥を晒すよりも、一層、潔くこのまま死んでしまいたいと、仮本堂でお勤めをしている時、『阿弥陀経』の「當信是稱讃」の言葉が自身の五体を揺すぶり、「當に信ずべし」と聞こえてきました。「あー、私はこの信が私にまで届いていなかった」。仏さまの前で絶句し、暫くその座を立つことができなかったと述懐していました。逃れることの出来ない、その身に立つ時、叔父は如来の声を聞き、「正信偈」の「本願名号正定業」のお言葉に自身のいのちを受けとめ、生きることを再び心に誓いました。戦争に負けた虚脱と、「らい」に対する偏見が去来する中、叔父は自身のいのちを見失い、「死んだら、この苦しみから解放される」と、夜な夜な死を求めて死に場所をさがし求めたようです。私のいのちは私一人のものではなかった。十方三世の諸仏に護念せらるるいのちであったと気づかされたのでした。
四、涙のにじんだ母の手紙
教勝が家を出て、40日後に届いた母の手紙を紹介します。叔父はこの手紙を心の支えとして生きてきました。私は一人ではない、自分のために泣きつづけてくれる母がいる。その母は96歳にて命終しました。
母の一日でも我が子教勝と共に生きたいという執念とも思われます。ハンセン病に病む親子、兄弟、家族の苦しみを少しでも知っていただければ幸いです。(以下、原文のまま・〇〇は涙)
教勝さん、ないてはかきゝゝ、わからない所は、判じて下さい。
教勝さん、永らく御不さた致しました。たびゝゝ御便り下され 有がたく存じます。御元気の由、誠によろこばしく、御座います。私も丈夫で居ります。御安心ください。何から申すか むねいっぱいです。御前が立ってから、四十日近くになりますが一日も思わぬ日はありませぬ 御前が行ってからは、淋しくてだれも居らぬ時、大きな声で勝ちゃん、勝ちゃん、勝よ、勝よとよんでは居りました。それでも比頃は御便りで少々気もおちつきました。毎晩、四時に目ざめ、又、思わんでもいい事をかんがえてはないて居りますが心をとりなおしては、御念仏を申うさしてもらいます。この時、あなたも家の事を思って居られると存じます。
御前のまいたスイトピーと金仙花が大分に大きくなりました。春には立ぱにさかせてみま○○す。なみだでかけません。御前が家に居る時から左の○○目が赤かったで案じて居りましたが、其のち、いかが○○か、どおか大事にして下さい。金ざん寺のもとををくります。
今日、父は家であります。兄さんは岡崎の御引上であります。一時から本堂の工事のよりあいで、世話方が来ます。あなたの取りよせた白さいが大きくなりました。大根も大きくなりました。
今年は御米がありませぬ。家も米の御はんはあまりたべられませぬ。毎日、おいもの御はんです。其内にたんぜんも送りたいと思います。くれゞゝも体を大事にして下さい。報恩講は一月五日より八日までであります。今年もわずかになりました。御体を御大事になされ度、ほしい物は御申出下さい。出来る事は致します。
九日の朝 母より 教勝どの
教勝は母の涙に救われてきました。また、多くの人々の心にも支えられてきました。しかし、このような苦しみと悲しみを与えてきたハンセン病問題は、今も尚続いています。「本当の人間回復とは、私を園に送り込んだ側、差別した側も共に回復することです」という教勝(藤井善)の言葉が、私たち一人ひとりの厳しい課題として響いてきます。
*1945(昭和20)年1月13日、三河地震にて本堂が倒壊し、名古屋学童疎開の児童八名が死亡。
〇本稿では、「らい」・「らい病」の言葉を用いている箇所があり、現在は「ハンセン病」と表現されますが、当時の様子を忠実に伝えるため「」を付けて使用しました。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』2023年11月号より