真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし

法語の出典:「高僧和讃」『真宗聖典』499頁

本文著者:里雄康意(大垣教区緑林寺住職・元真宗大谷派宗務総長)


今から四十七年前大学を卒業し、周りの人々の勧めによって、真宗本廟奉仕の方々と僧伽の生活を共にする、同朋会館の嘱託補導という仕事をさせていただきました。


寺に生まれながらも仏法に遇うこともないまま、寺院生活に対し疎ましさだけをもち、僧侶である自分を意識的に遠ざけていた時です。そんな私の有り様をずっと見守り続けていてくださった方々が、仏縁を結ばせようと嘱託補導に押し出してくださったのであります。


全国から真宗本廟奉仕に上山された方々と語らいの時間を持たせていただき、自分の浅い人生経験と知識を頼みにして話し合う場をつくっていましたが、場が重なるにともなって話を深めることもできず行き詰まり、どうすることもできなくなることもありました。自分の無能力さ、知識の浅さに劣等感、失望を感ずる日々を過ごすことになっていったのです。


それを逆恨みし、こんな難しい場所に送り込んだと恨み、妬ましくさえ思うこともありました。


そして、自分が頼みとしている自分の能力や知恵では間に合わないのに、それらさえ磨き鍛え上げればなんとかなるのだと思い込み、苦しい日々を過ごすこととなったのです。それと同時に、教導の先生のご法話も耳に入らず、奉仕団の皆さんの声も聞こえなくなっていきました。


まさしくそれは、自分の自負心を頼みとする独りよがりの世界が生み出したものでしょう。ですが、それを思い知ることは、「難きがなかになお難し」です。


しかし、教導の先生のご法話にあい、奉仕団の方々の生活から生まれる言葉に出遇っていくことによって聞法が深められ、この行き詰まりは自分の経験、能力、知恵を頼みとしている有り様がなさしめていたのであると思い知らされました。


自らの独善的な自負心から生ずる疑情が、人々が親鸞聖人の世界を求め生きることによって培われた深い生き方を見えなくさせていました。私たちは、独善的な自負心にとらわれ、広大無辺の仏智に気づくこともなく過ごすことによって、人として生きることの豊かさを失っていくのです。そのことに気づくのに聞法の時を経るのです。


聞法求道に生きる人々との出遇いによって、この私は自分の能力、知恵、経験を頼んでいたと気づかされた時、かたじけなさを感ぜずにはおれません。


仏智の中にありながら、自分の我情を絶対化し、それにしがみついていることに気づけない者が、仏法を求めて生きている人に出遇った時、見えていなかった世界が見え、聞こえていなかった声が聞こえるのです。


私の独善的な自負心が、本願の歴史、本願の世界を物語ってくださっているよき人に出会いながら、聞く耳を持たず、よき人をよき人と見いだすことなく、広くて豊かな世界を自ら狭めているのです。それを思い知らしめてくださるのが、如来の教法を伝えてくださる真の知識なのです。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【11月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。

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