穢土に適応する能力
(難波 教行 教学研究所所員)

「意思疎通ができない障害者は殺した方がいい。」
 
二〇一六年七月、そう言い放った青年が神奈川県相模原市につくられた重度障害者施設に忍び込み、入所者十九人の命を奪った。世の中に衝撃を与えたこの事件を機に、「犯人に限らず、役に立つ/立たないということばかりに目を向け、人を能力で判断してしまっている」と、反省的に語られることが多くなった。
 
そうした言葉を聞くとき、思い当たることがある。それは私もまた日常的に人の価値を能力で量っているということであり、自らがその価値観のなかで認められたいと願っているということである。そしてそれは、人間それ自体の尊さを見失い、人と会っていながら、人として出会っていないということでもある。
 
このような自らのすがたを教えられることは大切にちがいない。ただ、私はどんな能力に価値があると考えてきたのだろうか、そのことを問わずにいたように思う。
 
――私は幼い頃に患ったある難病によって、身体をコントロールする能力を失っていった。はじめは指先を正確に動かして字を書く能力。つぎに足を前後に動かして歩く能力。幼少期から青年期にかけて、思う通りに動かせるところは、どんどんと減っていった。私はその能力が元通りになることを求め、治療を続けた。身体の痛みを取ることは治療の最たる目的だったが、治りたい理由はそれだけではなかった。私には、価値なきものと見られることへの怖れがあった。身体を動かせる能力を取り戻し、価値があるとされるものになりたかったのだ。
 
十数年に及ぶ治療の甲斐あって、私の症状は大きく改善した。しかしそれでも、自らの能力に満足できるわけではなかった。
 
生きるうえでは様々な能力が求められている。価値があるとされる能力を挙げればきりがないが、特に近年では、多くの人と円滑に意思疎通して良い関係を築く、いわゆるコミュニケーション能力が様々な場面で必要だといわれている。
 
手足が動かせること。多くの人と円滑なコミュニケーションがとれること。そんな能力がなぜ価値あるものとされるのだろう。そしてなぜ私は人のそうした能力を評価し、私もまたできるようになりたいと求めているのだろう。それは、できないよりできる方が、からではないか。私が〝価値がある〟と考えていた能力とは、この世界をうまく生きるための能力というべきものだったのではないか。
 
浄土の教えは、この世界が、互いに傷つけ合ってやまない「穢土」であると教えている。その穢土において、私は可能な限りうまく生きたいと願っている。ならば、こうもいえるだろう。私は穢土に適応しようと必死なのだ、と。
 
それは穢土そのものを問題とすることと根本的に異なるにちがいない。むしろ、うまく生きれば生きるほど、穢土を問題とすることから離れていってしまうのかもしれない。
 
浄土の教えは、穢土に適応する能力を高めるものではない。それは、その能力を求めて必死な私を問い続けるまなざしである。


(『ともしび』2024年1月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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