信心あらんひと むなしく生死にとどまることなし

法語の出典:『一念多念文意』『真宗聖典』544頁

本文著者:福島光哉(大谷大学名誉教授・大垣教区永壽寺前住職)


この法語は、親鸞聖人が八十五歳の時につくられた『一念多念文意』という仮名文に見える一節です。


聖人は晩年、京都へ帰られてからは関東の門弟たちを気遣い、とくに八十四歳の時には、「信心」の問題をめぐって、わが子善鸞を義絶するという痛ましい目に遭われました。そういう苦悩を背負って、「お聖教」をとおして門徒衆とともに、精魂こめて信心を確かめられたのですね。そこには、晩年の聖人にとって、「信心」こそがかけがえのない大問題であったことが、よく伺えるのです。


私は最近、体力も精神力も衰え、米寿に近づくという《はかなさ》を感ずるようになりました。それは間違いなく死期に近づいているという不安・おそれでもあります。その不安は誰かに語るのは難しく、孤独感に陥ることでもあります。そこで「生きる目標」「人生の目的」といった終生の課題が、見えにくくなりながら、しかも一層重くのしかかってくるのです。そしてその課題とは、親鸞聖人の「信心によって、むなしく生死にとどまらない」生き方として、私に語りかけてくださることでなければなりません。


ここに掲載されたのは、「一念か、多念か」をめぐる問題を論ずる中で、天親菩薩の『浄土論』にある「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(真宗聖典一三七頁)の偈頌を引用し、その意味をやさしい言葉にかみくだいて、説明されている部分です。


まず「観」についてですが、この文字は、大乗仏教においては、最も大切な修行法をあらわす言葉でありました。特に、聖人は天台宗の比叡山で長い間修行されましたが、その中心は「止観業」という、精神を一点に集中して、わが「仏性」とか「真如」とかを自覚するという、最も厳しくわが心身を観察することでありました。ところが親鸞聖人は、その「観」について「願力をこころにうかべみるともうす、またしるというこころなり」(『一念多念文意』真宗聖典五四三頁)と教えているのです。つまり「仏さま」を「わが眼(まなこ)をもって観る」よりも、仏さまの本願・慈悲が私に「はたらき続けてくださる」ことに気づく、という意味に受け取られたと思われるのです。したがって「遇(もうあう)」もまた、「本願力を信ずるなり」と了解されたことは、本願力を憶念し仰信することが、「功徳大宝海を速かに満足せしむ」ことだと受けとめられたからでしょう。


そこに、人間の生きる目的、「信心に生きる」ことを、はっきりと示してくださっていることを、あらためて考えてみなければならないと思います。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【12月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。

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