生老病死と現代研究班 所内研究会報告 「苦悩する存在、表現する存在」
(中村 玲太 教学研究所助手)

生老病死と現代研究班は、現代における生命に関する諸課題を考究することを課題としている。「生老病死」と現代、と掲げるように、生老病死を生命の実相と見る、すなわち生あるものは苦しみから免れ得ないことを本質とする仏教の人間観が研究の基礎にある。本研究班は、生命の本質としての「苦しみ」「痛み」という根本的課題を、現代の諸問題を通して見据えていくものである。また、われわれは“共に”生老病死する存在であるが、その苦しみの中で、包摂や排除による差別構造を作り出し、さらなる苦しみを生み出している。こうした苦しみの身を生きる者が発した言葉、表現を受け止めることが「苦」の問題を問う一つの起点となろう。
 
荒井裕樹氏による問題提起
 
苦悩の生命、社会を生きる者が発する表現について考究することを目的として、荒井裕樹氏(二松学舎大学文学部准教授)を講師として招聘し(二〇二四年三月二八日)、研究会にて問題提起をいただいた。荒井氏は、障害者文化論・日本近現代文学を専門とし、近年の著作に、『障害者差別を問いなおす』(ちくま新書)、『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)などがある。本研究会で荒井氏が提起したテーマは、「「表現に宿るもの」と向き合う──被抑圧者の表現を読み解く」。「読み解く」とあるが、苦しみのただ中にある人には、容易に読み解けない葛藤があり、読み解くための言葉がないという事態に遭遇する。そうした「「言い表しにくいものを表現すること」の難解さを共有したい」のだと、荒井氏は言う。
 
本研究会の中で、第一の課題として位置づけられたのが、「「苦しいこと」を表現できるか?」であった。荒井氏は、痛いことや苦しいことはそもそも表現しづらく、病苦や経済苦などと「苦」の種類を表す言葉はあるが、「苦」の深さを表現する言葉はないのではないかと問われた。また、そうした言葉は「苦」の重さ比べにもつながるのであり、なくてよいのだともする。
 

荒井裕樹氏

 

このような根本的な表現の難しさはあるが、さらに弱い立場にある者ほど言葉にするのが難しいと指摘する。ただ、何か──例えば、具体的な「苦しみ」は表現しにくくとも、「苦しいこと」自体──は発信している。こうした発信や表現は関係性を築くためのものでもあり、「苦」の深さとは、その関係性の中で知られていく、察していくものではないかとされた。この「苦」と表現について、精神科病院で描かれた作品などから問いを深めていった。
 
ほかにも、障害者文学やハンセン病文学を紹介され、表現をその人の「属性」から読み解くことの問題や、マイノリティにおけるさらなるマイノリティへの視点などについて議論が行われた。
 
講義を受けて
 
以上は問題提起の一端であるが、本研究会を受けて考えるべきは、「苦」の根本的な表現の困難さと、包摂と排除の問題である。「わかりやすい」「わかる」苦悩だけに注目するならば、それはマジョリティによる包摂であり、同時にそこに排除される苦悩を生んでいる。つねに「わかりやすい」「わかる」苦悩だけを見ていないかという検討が必要である。ただ、自分を基準とした価値観から抜け出ることは、一人では難しい。荒井氏の言うように、関係性の中から、多様な苦悩の深さが知られるのではないだろうか。一人ひとりの苦悩を実地に尋ねていかなければならないのであろう。

(教学研究所助手・中村 玲太)

([教研だより(217)]『真宗』2024年8月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています