煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌
(『真宗聖典 第二版』三一九頁)
(教学研究所助手・梶 哲也)
右の文は「往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり」と続く、『教行信証』「証巻」冒頭の御自釈の一文である。この「即の時」や「大乗正定聚の数に入る」という言葉に、多くの関心が寄せられている。ただ私は、まずこの「煩悩成就の凡夫」という表現に捕まってしまう。
成就は、現代の日常語では達成や完成を意味するが、仏教の教義学的には「所有していること」を意味する。親鸞聖人自身、「煩悩具足の凡夫」とも表現される。だから、「煩悩成就の凡夫」は「煩悩を完全にそなえた凡夫」と理解できる。そのような理解であれば、たまには自らの貪りや怒りを省みることもあるから、自分のことかと考えることもできる。
聖人はこの「煩悩成就の凡夫」に続けて、「生死罪濁の群萌」ともいう。これは「どこに行き着くとも知らず漂うようにただ生き死にを繰り返す中で、老病死の苦しみを生み続ける存在たち」という、途方もない歴史を背負う言葉だ。私のことなのかと思える「煩悩成就の凡夫」に対して、この「生死罪濁の群萌」が自分であるとは、到底認めることができないように思う。
釈尊は、凡夫には善悪の業の異熟(結果)を思議することができないと説かれた(『増支部』「四集」)。つまり、私は自身を「生死罪濁の群萌」と見ることなどできないと、釈尊が見極めておられるということになる。
では私が自分のことを、そもそも「煩悩成就の凡夫」と言うことはできるのだろうか。
老病死の苦の因である煩悩は「苦の生起という聖者にとっての真実」(集聖諦)であると、釈尊はその最初の説法で説かれた。聖者とは老病死の苦しみから解放された仏陀の説く真実を聞き、その教えに心を開いたものである。心を開き、真実に対する眼を得れば、その刹那にいくつかの煩悩さえ断じられ、涅槃への道が定まるほどの存在だ。対して凡夫は、仏陀の教えを聞かず、聖者にとっての真実を見ることのないもののことをいう。
だから「煩悩成就の凡夫」とは、凡夫が自身を指して使える言葉ではない。これは聖者たちがいまだ仏陀の教えを聞いていないものたちを指し示した言葉なのだ。したがって、何ひとつ煩悩を断じていない私が、自らの貪りを反省して私は煩悩をそなえた凡夫であると言ったところで、「煩悩成就の凡夫」が示す内実には遠く及んでいないのである。
聖者たちの眼から見れば、私のありさまは真実として「煩悩成就の凡夫」、つまり「老病死の苦の因がその身として成立している真実を見ないもの」と表現される。そしてそれが故に、煩悩のままに苦しみに溺れ続ける結果となる「生死罪濁の群萌」とも言われる。
私に私の内実を示す教えが開かれている。その開かれた教えを聞き、真向かいになったとき、「往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり」という言葉が、わがことと受けとめられるのだ。
(『真宗』2024年9月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
●お問い合わせ先
〒600-8164 京都市下京区諏訪町通六条下る上柳町199 真宗大谷派教学研究所 TEL 075-371-8750 FAX 075-371-6171