沖縄のハンセン病問題~歴史から見えること~
沖縄開教本部長・沖縄別院輪番 長谷 暢
ハンセン病問題が今も社会の中に深く刻み込まれている地域の一つに沖縄がある。戦前から県内に二ヵ所の国立療養所(沖縄愛楽園・名護市 宮古南静園・宮古島市)と、社会で生活するハンセン病回復者の支援と診療所を兼ねた一つの施設が現在も存続している。日本の全人口の約1%余りの沖縄県に、全国で13ある国立療養所のうちの二つと、関連施設が一つあり、現在も多くの回復者が社会で暮らしている。
沖縄においては、ハンセン病回復者は入所者以外の方が多く、現在二つの療養所入所者数が百数十名であることに対して、県内のハンセン病療養所退所者及び非入所者(療養所に一度も入所しなかった人)はおよそ500名程度といわれている。しかし、この数字は退所者給与金などを受け取っている人を把握したもので、ハンセン病回復者またはその家族であることを世間に知られるのを恐れて給与金の申請をしていない人を含めると、それ以上の数となる。そのような背景があるからか、筆者と交流のある退所者の方々に聞いても、その実数はわからないという答えが返ってくる。
ところで私が初めてハンセン病回復者と出会ったのも、退所者の方々の集まりであった。縁あって沖縄開教本部で勤め始めたのは、ハンセン病国賠訴訟において原告が勝訴した2001年秋ごろのことである。それまではハンセン病問題のことは、おそらく教師資格取得過程においてどこかでふれ、学んだかもしれないが、当時の私には全く関心がなかった。上司のA氏に誘われるがままに訪れたのが、療養所から退所した方々が那覇市内で集まる会議の場であった。そこに出席していた多くの方々は、数十年という単位で療養所の外で暮らす人が多かったと記憶している。中には沖縄が日本に復帰する前に療養所を退所し、ハンセン病回復者であることをひたすら隠しつづけて社会で仕事をし、家庭を持ち、懸命に生きてきた人もいた。その退所者の方々のお話を聞くと、その苦難と苦悩は療養所に隔離され続けた人たちと比して、決して軽いものではなかった。
私と同じように、みな療養所にいたことがばれることを恐れ、おびえながら暮らし、何度も仕事を変えて苦しい生活をしている人が多かった。(ハンセン病療養所)退所後も家族から縁を切られ、生活が苦しくても家族の支援を受けることができないため、保証人を必要としないサラ金からしかお金を借りることができない人もいた。私もサラ金のカードを何枚かもって、その日その日をしのいでいた。
(平良仁雄『「隔離」を生きて』沖縄タイムス社、 2018年)
退所した方々が、人によっては配偶者や子どもたちにまで病歴を隠して生きなければならない現状は今も続いている。平良さんは、今は自身のライフヒストリーを話し、愛楽園のガイドとしても活躍されているが、人生の大半はハンセン病回復者であることを知られることに「恐れ、おびえ」ながら生活されてきた。そして、「「らい予防法」が家族の暮らしを壊し、家族の命すら奪った」(同著より)のだと認識されている。
さて、このハンセン病回復者の中で入所者以外の数が多いという比率は、沖縄のたどらされてきた歴史と無関係ではないと私は常々感じている。明治の初めに琉球王国は併合され、沖縄は日本に組み込まれた。以降、ずっと現在まで不平等な取り扱いを受けている。その象徴的なものは沖縄戦であった。日本軍が沖縄戦に向けて配備される際は、まずハンセン病患者の療養所への強制収容を行った。これは当時、家庭の中で生活していた患者らを保護し治療するためということではなく、投入される軍人に感染しないようにとのことであった。療養所は病院施設であるはずにもかかわらず、入所者は強制的な労務が強要された。また、米軍もこの施設が壊滅するまで攻撃し、戦後の沖縄では米軍によりふたたび患者らを収容した。その後、米本国が特効薬の登場により隔離政策を終了する一方で、琉球政府では日本の法律に倣って絶対隔離政策が継続された。ところが、琉球政府がとった隔離政策にかかる法律には「退所規定」が存在し、病状がある程度回復した人を差別と偏見が渦巻く社会へ、何の手当もなく放り出したのである。そのことが起因して、現在も沖縄県には多くの退所者や非入所者の家族がたくさん暮らしており、今も「らい予防法」による差別を受け続けているのが現状である。なお、この「退所規定」は進歩的な制度であったとみる向きもあるが、近年の研究では「回転ベッド方式」とされ、不足しがちな床数を有効利用するためであったと指摘されている。
一方、入所者の方々も他府県に比してさらに過酷な状況があった。戦後間もない米軍統治下の1947年、米軍から通達があったとして「逃走者及び逃走せしめたるものは死刑に処す」との園当局からの記録が残されている。また、名護市と宮古島市の二つの療養所は、米軍統治下において日本の療養所との格差はすさまじいものがあり、復帰後に両自治会として本土療養所との格差是正が要望され続け、すべての是正がなされたのは2010年のことであった(※参照 沖縄愛楽園八十周年記念誌『うむいちなじ』沖縄愛楽園自治会編、2020年)。
また、2001年のハンセン病国賠訴訟の判決においては、沖縄の原告については本土復帰以前の被害が明らかにされておらず、米軍統治下での被害のみならず、それ以前の被害までも不明のまま判決が下されている。
このように沖縄の歴史の中でハンセン病回復者の現状をとらえると、日本、米国に不平等に取り扱われ続けてきたことや、また沖縄からもハンセン病回復者として不平等に取り扱われてきたといった幾つもの不平等が重なりあっていることに気づかされる。これは私がたまたま沖縄の地で真宗の僧侶としてたくさんの人に出遇う機会をいただき、声を聴かせていただいたからに他ならない。そして「らい予防法」の被害が今も続いていると確信するのは、その人々から優しく懇ろに、怒りと叫びのような呼びかけがなされているからだ。これを継承することがハンセン病問題の大きな一つの課題であると思っている。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』2024年9月号より