1996(平成8)年 真宗の生活 10月
<蓮如上人から教えられること>
御つとめのとき、順讃御わすれあり。南殿へ御かえりありて、仰せに、「聖人御すすめの和讃和讃、あまりにあまりに殊勝にて、あげばをわすれたり」と、仰せそうらいき。「ありがたき御すすめを信じて往生するひとすくなし」と、御述懐なり。
(『蓮如上人御一代記聞書』真宗聖典855頁)
蓮如上人があるとき、法要があって何人かの法中(僧侶)といつしょになって、おつとめをしたことがありました。順讃というのは、和讃の最初の一句を順番に発声することをさすのですが、蓮如上人ご自身の番になったときに、黙って発声がありませんでした。恐らく、少し遅れて他の人に言われて、発声されたと想像されますが、その場面の状況が、ありありと目に浮かんでくるようです。おつとめが終わったあとで、自分の部屋に帰られてから言われるには、親鸞聖人のつくられた和讃が、あまりにあまりにありがたく身に沁み、そのことに心を奪われておって、自分に番が回ってきていることを、すっかり忘れていたとのこと。何かほほえましく、笑いを誘うような気がするではありませんか。しかしそのあとに、「ありがたき御すすめを信じて往生するひとすくなし」と。即ち、親鸞聖人のありがたい教えのことばを、ただ口先だけで唱えて、深い心をうけとることができず、したがって助かってゆくこことのできる人の少ないことは、まことに残念なことであると仰せられたのです。
以上のことは、現在の私たちにひきあてて考えるとき、どういうことになるのでしょうか。
私たちが朝夕勤行をしていても、お経のことばの内容を深く受けとることもせず、ただ習慣的に、声をだしているにすぎないならば、情けないことだと言われているように思えるのです。
『真宗の生活 1996年 10月』「蓮如上人から教えられること」