ラジオ放送「東本願寺の時間」

尾畑 文正(三重県 泉稱寺)
第1話 今、いのちがあなたを生きている [2005.12.]音声を聞く

おはようございます。本格的な冬の到来する季節となりました。すでに北国では雪に覆われて、冬の生活に入っている人たちも多いかと思います。
先月、昨年の新潟県中越地震で、大きな被害を受けた山古志村近くで、真宗大谷派主催の研修会がありました。震災から何が問われているのか。被災者、そして、ボランティアの方から現地で学ぶ研修会です。当日は、長岡から車で夜半に通ったこともあり、通過した村々のいくつかは、人家の明かりも消え、ひっそりと無人の状態でした。今もなお地震の爪痕も生々しい状態でした。
その被害の実態をこの目で見て、あらためて昨年の地震の被害の大きさに驚き、この地をただ外側から傍観していた自分のふがいなさを思いました。
親鸞聖人の教えを通して、共に生きることの大切さを学びながら、結局、自分のことしか考えていない生き方に今更のように、恥じ入りました。確かに、地震が起きた当初には、連日にわたってマスコミの報道もなされ、地震が日常の関心の中に入り込んでいました。テレビも、ラジオも、新聞も、週刊誌も、地震一色でした。だからでしょう。被災地と、そこに住む人々への関心も深いものがありました。その結果、多くの人々の被災地への思いが支援となり、全国からの救援物資などもたくさんよせられました。もちろん、それらは今も継続中です。それは本当に尊いことだと思います。しかし、一年も経つと、私たちの関心も薄れていきます。目まぐるしく動く日々の暮らしの中で、いつしか、地震が起きたことも、そこで起きた悲惨な出来事も、被災者のことも、忘れることの多い生活となっているのではないでしょうか。
もしそうであれば、そのことがより悲惨なことではないかと思います。今もなお、復旧のめどもたたない現状の中で苦しんでいる人たちのいることを、決して「忘れない」ことが、いま私たちに厳しく求められているのではないでしょうか。
2次災害への危機から自分の家に帰れないで、仮設住宅に住み、これからの行く末を考えて、途方に暮れている人たちが今もなお存在しています。その現実を「忘れない」ことの生き方は、特に、勝ち組、負け組などと称して、人間生活を差別化する競争社会において、私たちが人間を取り戻していく最も大切な生き方だと思います。しかし、このことは新潟県中越地震のことだけではなく、人間を見失う生き方を問うすべての問題に通じることだと思います。
ずいぶんと前に、映画「戦場に架ける橋」で有名なタイのカンチャナブリに行ったことがあります。そこにはアジア太平洋戦争中の日本の捕虜虐待についての歴史を記録する戦争博物館がお寺の境内に建設されています。その戦争博物館の入り口には、日本の戦争犯罪に対して、「許そう、しかし、忘れない」と書かれてありました。
「忘れない」ということは、共に生きる人間であることを取り戻す共生感覚であると共に、共に生きることを見失った人間を正す共生感覚でもあるのです。今、私たちに求められていることは、ともに苦しみ、ともに悩み、ともに喜び、ともに怒る、ともに悲しむ、そういう共生感覚の回復です。そういう共生感覚が私たちに見失われていることが、あらためて問われていると思います。
そんな自己中心的な生き方を「よし」として生きている私たちに、共生するいのち、相互共存するいのちそのものから、私たち一人ひとりを問うているのが、宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマの「今、いのちがあなたを生きている」という問いかけなのではないでしょうか。

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