もうずいぶん前のことなので申し訳ないのですが、関西地方にあります真宗大谷派の難波別院というお寺から毎月発行されている新聞に、電話相談のコーナーがあって、以前にその難波別院にお勤めの方にお聞きしますと、毎月、それこそいろんな相談ごとの電話がかかってくるのだということでした。
それらの相談ごとのなかで、このお話なら、みなさんにも一緒に考えていただくといいのではと思われるものを、次の月の新聞に載せるようにしているのです、ということでした。
私が読んだ相談ごとは、40代のお母(さん?)からのものでした。
中学校3年生の娘さんがおられ、その娘さんが最近、母親に〝お母さん なんで私をもっと頭のいい子に生んでくれなかのか。どうしてもっとかわいい子に生んでくれなかったのか、そして、だんだんエスカレートして、たのみもしないのに どうして私を生んだのだ〟と問い詰めるのだということです。次の年の春には高校受験が控えています。いつまでもこんなことにこだわってグズグズしているようでは受験にいろんな影響がでてくるにちがいありません、仏教ではそういうことについて、どのように教えているのですか、モシモシ〟というものでした。
相談を受けたのはその難波別院の近くのお寺の住職さんでした。
人間がこの世に生を受け、生まれてくるということは、その人の思いを超えた大きないのちそのもののおはたらきによるものです。中国の唐の時代に出られた善導大師は、人は誰しも自らの心の中に生まれ出たいという願いを持っていて、その願いが父・母という縁に遇うことによって生まれてくることができるというふうに言われています。これは、どんな人のいのちも同じ重さです。人間の思いをこえた、おおいなるいのちのはたらきに目覚め、この一生をほんとうにかけがえのないたいせつなこととしていきていくということ、どうぞ、子供さんとご一緒に、これからは少しでも機会を見つけてお参りの場へ足を運ばれますようおねがいします。
と、だいたいこのようなお返事ではなかったかとおもいます。
わたしは、なんどもこの相談の記事を読んでみました。2、3日してからまた読み返してみました。というのは、ひょっとしたら相談の電話をかけてこられたお母さんも、そしてお相手の住職さんも、直接話せないもどかしさがおありのように思えたからです。
中学3年生です。やがて自分を待っている、自分がいやが応でもその一員として参加していかねばならない、大人たちのこしらえた社会、世の中、それがどのようなものなのか、少しずつはっきりとわかりかけてくる年齢でしょう。
自分を受け入れようとしている世の中、その世の中には様々な価値観がまかり通っています。好むと好まざるとに関わらず、誰もがその価値観について推し量られているのではないでしょうか。この中学3年生の娘さんは、そのことを今、ヒシヒシと感じはじめているのです。
賢いものはよいとされ、そうでないものはダメとされます。かわいい子は良しとされ、そうでないものはダメ。そのモノサシを伸ばしていけば、それこそ、ついには健康なものはいい、そうでないものはダメ、若い元気なものはよくて、そうではない老人は世の中のお荷物、たくさん持っているものはいい、もっていないものダメ、などなど。
お母さんはどうなんですか。世の中のモノサシを背中にせおって、その世の中のモノサシで子供の私をみているんですか。おしはかって いるんですか。
それとも、確かに世の中には、そんなモノサシがまかりとおているけれど、人間一人ひとりの値打ちは、決してそんなモノサシで測ることはできない。いや、あってはならないことなのだと、わたしを背中にかばって世の中に立ち向かっているのですか。
そのことを問うているのです。だからして、世の中のモノサシで私を見て、もっと勉強しなさい、もっと身ぎれいにしなさい、などと口うるさく言って、今の私がそうでないからと言ってため息をつくくらいなら、それこそどうして私を生んだのですかと、そのことを問うているのです。
自分の心に思い浮かぶことを100パーセントことばで表現する能力のまだ不十分なものをこどもといいます。自分の思いをたくみに表現する能力をもつものを大人というのでしょう。
子供たちの大人に対するいろんな言葉、そのことばが、いったいなにを訴えているのかということ。
もう一度、ついこの前までそうであった自分自身の子供であったときを思い起こして考えてみなければならないのでしょう。