〝人は、この一生が終わったら、次はどうなるんでしょうか〟と。
あるとき、親鸞聖人にこのように尋ねられた方がおられました。そのお尋ねに対して、親鸞聖人は、およそ次のようにお返事なさいます。
〝私も、ずっと昔、まだ若かったころです。今のあなたと同じことを、生涯、師として、先生として、おうやまい申した法然房源空上人にお尋ねしたことがあります。
その時に、法然上人は、この私にどのようにお答えくださったか、法然上人のお答えは一言でありました。だけれども、そのときのそのお答えは、お言葉は、今日も、いや昨日も明日も、ずっと、ずうっと、私の中に響いています。決して忘れることはできません。
法然房源空上人のお返事は、
〝源空があらんところへゆかんとおもはるべし。〟つまり、この法然房源空が、いずれ、みることになるであろうところへ、あなたもいこうと思うてください、ということでした。
いかがでしょうか。同じところへ行くためには、同じ道を歩まねばなりません。道が違えば、決して同じところへまいることはかないません。ともに合いまみえることは出来ません。
〝まいるべし〟〝まいるべし〟という言葉が、ふっと私の耳の中に聞こえてきます。
そのたびごとに、はたして私は、今、法然上人が尋ねていかれた、法然上人の歩まれ(た?)道を歩んでいるんだろうか。ひょっとしたら、知らぬ間にまったく間違った道を選んでしまってはいないだろうか、そのことをいつもいつも、私は自分自身に、問い続けています。そして、ひょっとして、というよりも、きっと、法然上人が〝ゆかんと思はるべし〟と呼びかけて下さるお声は、私自身、私自身の内側から〝まいるべし、まいるべし〟という叫び続けている声と、ひとつなのだということを、この頃は そのように 確かに思われてならないのです。
このお話は、本願寺三代目、覚如上人が、(親鸞聖人がおなくなりになられてから九年目にお生まれになられた方ですが)、当時、まだ多くおられた、生前の親鸞聖人に出会われた人々、親鸞聖人から直接にお話を聞かれた人々を、尋ね、尋ね歩かれて、聞き書きされていかれた、いくつもの記録の1つ『執持抄』のはじめにお書きになられた物語の中のお話です。
私はこの『執持抄』の物語の中に、実に生き生きとした親鸞聖人のお姿を想うのです。
人は、行き先を尋ねているのでしょうか。それとも、道、そのものを尋ねているのでしょうか。
同じところに行くその道は、親鸞聖人も、そして法然上人も、中国の唐の時代に出られたお念仏の人、善導大師も、お釈迦さまも 歩んでいかれた道です。
大切なことは、いずれも歩むに先立って、道がすでにあるということでしょう。むしろ、道そのものが、私の中に〝歩もう〟という心となってはたらいて下さるということ、そして、私自身が、今、1歩、歩みだすことによって、道は、道であることを、成就するのでありましょう。
ではまた、次回に、失礼します。