2001真宗の生活

2001(平成13)年 真宗の生活 1月 【真宗の生活】

<命日>

私たちは誰かが亡くなった日のことを命日(めいにち)といいます。役所へ行けば、たいてい、死亡年月日といいます。さて、それでは、なぜ、「命日」というのでしょうか。

「命日」は、命の日と書きます。これは、私どもに先立って亡くなった方が残していってくださった本当の「(おく)りもの」だと思います。命日をご縁に仏事(ぶつじ)(つと)め、その仏事に出席した私どもに、「どうか、あなたがこの世に生を受けた、その命の意味について明らかにしてほしい」と、問いを投げかけられているということ、それが「贈りもの」という意味です。法事は、命の意味について明らかにする日です。

そういえぽ、『正信偈(しょうしんげ)』の冒頭(ぼうとう)にはよく知られているように、「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」と書かれてあります。この無量((はか)ることのできない)なる寿(いのち)に目覚めよ、というのが、この亡くなつた日を命日として法事を勤める意味なのです。

よく「いのちを大切に」といいますが、いつたい「いのちを大切にする」とはどういうことを指すのでしょうか。長生きすることでしょうか。それとも健康に留意することでしょうか。それなら、若死にした人は、いのちを粗末(そまつ)にしたことになります。病気の人も粗末にしたことになります。そう考えると、長生きすることや健康に留意することがいのちを本当に大切にすることになるとはいえません。いのちの(うつわ)を大事にしたのかもしれませんが、”いのち”を大切にしたとはいえないのではないでしょうか。
器を大切にしたという意味では、「いのちを大切に」とはせいぜい健康で長生きをしなさい、というくらいのことを言っているにすぎないことになります。このように、いのちを器という実体としてとらえていると、ついにいのち(無量寿=真実の自己)には出遭(であ)えないのではないでしょうか。

では、”無量寿なるいのち”とは、何を指すのでしょうか。八十歳の者も十歳の者も、健康な人も病気の人も、同じ一つのいのちを生きている。同じ一つのいのちが、あるときは老人、あるときは若者、またあるときは健康、あるときは病気を縁として発露(はつろ)しているのです。その同じ一つのいのちの”はたらき”を、無量寿と見いだしたのです。

器をいのちとしている限り、それは他との比較(ひかく)された「相対的ないのち(=私)」しか生きていないことになります。健康で若いことは受け入れるけれども、老いることや病気は受け入れられなくなります。つまり、いのちが与えられていて初めて、私が存在するのに、それがいつのまにか顛倒(てんどう)して、「わたしのいのち」と、いのちの事実に反してしまうのです。これこそが罪ということです。私のものでもないのに、私のものとするのですから。

その罪の結果として、私が私の身の事実(例えば、老いること、病気の自分)を受け入れられなくなって、自分を(きら)ったり、見捨てたりということがそこに起きてしまうのです。

”いのち”は私のものではない、”いのち”はいのちのもの、”いのち”は尊いものだという発見、それが仏教であったのです。これが、亡くなった方が後に残った者に”命日”を残していかれ元意味なのです。このことをほとんど稚一の機会として、器のいのちではない、”無量寿なるいのち”を尋ねていけよと。

真宗の生活(あるいは、生活が真宗である)とは、生活が、この尊い”いのち”との出遇いを開く縁なのだという意味から言われるのです。

『真宗の生活 2001年 1月』【真宗の生活】「命日」