目次
もう一つの近代真宗教学
-宗教としての真宗を求めた人、野々村直太郎-
木越 康
(大谷大学准教授)
はじめに
おはようございます。大谷大学からまいりました木越と申します。
しばらくの時間ですけれども、最近考えておりますことを少しお話ししたいと思います。
今日の題名は「もう一つの近代真宗教学」です。今日の話は、前回の日曜講演の続きというかたちになっております。昨年度、こちらで「近代化と浄土理解」というテーマでお話をさせていただきました。それは、明治から大正という、日本における近代化過程のなかで、日本人のものの考え方が大きく変わっていくわけですが、そこでは真宗教学もかなりの 影響を受けるわけです。そのことについて、特に「浄土理解」の問題をめぐってお話ししたことです。
明治期以降、浄土理解は、それまでに抱いていたような感覚とは大きく違って捉えられるようになってきました。たくさんの人々が近代的な発想、思索のなかで浄土というものを受け止めていこうと苦労されたわけです。その中で昨年はお2人の方に焦点をしぼって考えました。それは、本願寺派の野々村直太郎という方と、金子大榮先生です。このお2人の先生方の諸説を紹介し、どういうふうに「浄土」を受け止めていこうとされたのかについて尋ねたことです。それについては、『ともしび』(2006年3月号)に掲載していただいておりますので、関心のある方はお読みいただきたいと思います。
今日はその続きであると、先ほどお話しいたしました。しかし、明治から大正、大正から昭和、昭和から平成へと、研究も順調に進んでいけばよかったのですけれども、実は逆に、昭和初期から大正、大正から明治、明治から江戸へと、わたし自身の研究の関心がどんどん時代的には遡ってしまいました。現在は、ちょうど明治の初めぐらいでピタッと止まってしまっている状態です。そして、そこの足下に穴を掘りはじめるという、実に面倒な方向に研究が進んでしまっているわけです。今日はですから、ちょっと後ずさりして掘り下げているところの問題について、また話が途中になりますが、「もう一つの近代真宗教学」というテーマで話をさせていただきたいと思います。
もう一つの近代真宗教学
「もう一つ」という言葉をつけました。これは、「近代真宗教学」と言いますと、まず頭に浮かぶのは、清沢満之先生でしょうか。あるいは、その跡を継いで曽我量深先生や金子大榮先生、そして安田理深先生などが浮かびますでしょうか。そのような清沢先生からはじまる1つの教学の流れがございます。近代教学イコール清沢教学というふうに了解するわけなのですが、今日話題とします「近代真宗教学」というのは、それとはまったく別の流れから生まれたものです。
前回でも注目しましたが、特に野々村直太郎という方に焦点を当てて尋ねていきたいと思っているわけです。まったく別の近代教学であると言いましても、おそらく同じ問題に取り組んでいこうとされた、ある意味、願いは両者に通じるものがあるのだと思っています。清沢先生と同じような願いを持って、しかし違う取り組み方をなされたのが、今日話題とします野々村直太郎だと思うのです。異安心とされて、その伝統は切れてしまいました。しかし、この方を取り上げることによって、当時の時代が求めた真宗、時代が明らかにしようとした宗教というものについて考えていきたいと思うのです。
今日は「宗教としての真宗を求めた人、野々村直太郎」というサブタイトルをつけております。おそらく今、「宗教としての真宗」と言いますと、あまりピンとこないかもしれません。真宗を、説明なしに「宗教」と言おうとすることに対して、違和感や抵抗感がひょっとしたら、あるかもしれません。
しかし、今日お話しさせていただく時代にあっては、「宗教」という言葉が何を指すのか、まだ明確ではありませんでした。「宗教」という言葉、あるいは「宗教」というものが何なのかを探そうとしていた時代です。「宗教」という言葉が少しずつ定着していったのは、明治10年以降と言われます。それまでは「教法」だとか「宗旨」だとか、そういう言葉が使われていました。
ですから、今日のサブテーマ「宗教としての真宗を求めた人」は、今のわれわれの認識からすると、何かよくわからないタイトルになり、抵抗感をも抱いてしまうかも知れませんが、野々村の時代からしますと、ある意味,明確な願いや課題を示すことになると考えています。
『浄土教批判』について
前回と重なる点もございますが、復習をかねて野々村先生について確かめていきます。まず、先生をもっとも有名にしたのが『浄土教批判』という本です。これは、もともとは「浄土教革新論」というタイトルで、大正末に『中外日報』に掲載された論文です。そこで野々村先生は何を主張したのでしょうか。
往生思想を歓迎するの時代はモハヤ恐らく永久に去ったのである。……中略……往生思想は過去の思想であって、モハヤ現代及び将来に容れらるべき思想ではない。(『浄土教批判』)
このように主張されます。往生思想というのは、阿弥陀仏を念じて浄土に往生していくという信仰ですね。阿弥陀さまを念じて、浄土に生まれていこうという信心をたもつ、そういう思想はもう終ったのだと言うわけです。野々村先生は、このような思想は過去の思想であって、現代や将来にはもはや受け入れらないとおっしゃったわけです。
野々村直太郎という方は、明治4年(1871)に島根県に生まれ、明治30年(1897)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業しています。清沢先生の10年後輩になるわけです。卒業して、しばらく東京におられ、明治の末になって龍谷大学に奉職されたようです。当時は仏教大学と言っておりましたけれども、そこで職に就かれ、宗教学を講じておられました。そして、大正12年(1923)に、今のような発言をされ始めたわけです。次のようにも言われます。
真宗は吾人の信心を以て阿弥陀如来への他力回向なりと主張する。果してしからば、この回向の信心のうちには、阿弥陀如来の存在を認むることも、その如来の浄土たる極楽世界の存在を認むることも……中略……すべて是等のものを一々包含しているのであるか。……中略……絶対他力教たる真宗はここに至りて聖道諸宗も遙かに及ばざる難行難修の無理法門たるの外はない。(同上)
信心というのは如来回向の信心であると真宗では言うのだけれども、もしそうならば、回向の主体である阿弥陀如来の存在をまず認めなければいけないではないかと。そして、信心をいただいて浄土に往生するということであるならば、浄土や極楽世界の存在を認めなくてはいけないことになってしまうのではないか、ということです。
大正期は、近代化が進み、近代的な教育が進んでいく時代です。そういうなかで阿弥陀を信じなさい、浄土に生まれたいと念じなさいと主張し続けるならば、聖道門の仏教よりもはるかに難しいものとなってしまう。それを、「難行難修の無理法門」とおっしゃいます。簡単に言うと、阿弥陀仏や浄土は時代に合わないから、説くことを改めようという主張です。
新聞で「浄土教革新論」という論を1月末まで連載し、5月に入るとすぐにそれが『浄土教批判』として出版されました。浄土教の革新という題名で展開した論を、浄土教を批判するという題に変えてしまったわけです。そうしますと、当然、それに対する厳しい反発もくるわけです。
出版された『浄土教批判』は、第1章 封建時代と浄土教、第2章 現代とヒュマニズム、第3章 往生思想は宗教に非ず、第4章 浄土教は何故に宗教なるか(上)、第5章 浄土教は何故に宗教なるか(下)、第6章 過去の宗学と将来の宗学、となっています。ここで宗教という言葉が第3~5章にあります。
実は野々村先生は、自分の心中に、宗教とは何であるのかという概念を、この時すでにはっきりとお持ちなわけです。そしてその上に立って、当時の往生思想を宗教ではないとおっしゃるのです。第1~3章までを、野々村先生は破壊論と呼びます。そして第4~6章を建設論と言います。野々村先生は、宗教というものを大事にし、宗教というものを求めた方なのです。
けれども、そのため逆に、似て非なる宗教を徹底的に洗い出し、払拭していこうとされました。これについては後で詳しくみますが、今簡単に言いますと、『浄土教批判』では、浄土教の非宗教的側面を破壊し、本来の宗教性に基づく姿を再建したいと願われたわけです。
ところが、当然、これは議論を呼ぶわけです。特に阿弥陀や浄土を拒絶するということになりますと、真宗教団そのものを否定するということにもなるわけです。
野々村先生は僧籍をお持ちでした。僧侶であり、しかも宗門の龍谷大学の教員である野々村先生が浄土教批判を展開するわけですから、多くの非難が浴びせられることになるわけです。
論争があった大正12年というのは非常に大事な年でありまして、立教開宗700年をひかえた年でした。立教開宗ということで、親鸞に帰ろうという気運がたかまる時代です。近代化が進んでいくなかで、真宗や宗門を問い直そうという時代であったわけです。同じ頃に金子先生も、「親鸞に帰れ」という主旨の論文を『中外』に書いておられます。
金子先生は、「釈尊入滅の後、七百年たって龍樹が誕生した」とおっしゃいます。そして龍樹が、釈尊の思想を再活性化させたのだと言います。今、われわれは同じく立教開宗の700年を迎えようとしているのであるが、まさに「今龍樹」が望まれているとおっしゃいました。そういうなかで野々村先生は、これからは阿弥陀や浄土を説かない形で浄土真宗を再建しようではないかと主張したわけです。
結論から言いますと、野々村先生の試みは社会的には失敗することになりました。論を書きはじめたのが1月で、5月に出版、しかし8月にはもう僧籍剥奪になります。そして、12月には龍谷大学も依願退職というかたちでお辞めになっておられます。1年で、宗門からも大学からも退かなくてはならなくなりました。
先日、大谷大学で大きな学会がありました。そこで、今からお話をさせていただいく野々村の思想について紹介させていただきました。その折りに、本学の安冨信哉先生からコメントを頂きました。「安田先生は、ご自分の先生は野々村直太郎と曽我量深だとよく言っておられましたよ」とおっしゃったのですね。私は、もう3年ぐらい野々村先生のことを研究しておりますが、安田先生が野々村先生に触れておられたことを知ってはいました。しかし、そこまでのことは知りませんでした。
野々村先生は、最後は立命館大学におられたようですが、そこに安田先生も話を聞きに行っておられたようです。ともかく、たいへん誤解されやすい方ですが、大谷派近代教学に対しても、大切な意味を持つ思索を展開した方だと思うわけです。野々村先生は早くに宗門から退くことになるのですが、今でも名誉回復はされていないのだと、お西の先生からうかがったこともあります。
当時、全員が野々村先生に反対をしたのかというと、実はそうではないのです。多くの方々が賛同もしたわけです。私が大学で学生に野々村先生の話をすると、学生はよく理解できると言うのですね。浄土や阿弥陀を、そういうふうなかたちで一端破壊するという発想が、彼等には理解しやすいのですね。
当時も、少ないですが野々村先生の賛成に回る方もおられました。なかでも、独特なかたちで野々村先生に呼応したのが、梅原真隆という方です。この方はお西の「勧学」になられ、富山大学の学長もなさった方です。教学の最高責任者ですね。梅原先生は、野々村先生について、こうおっしゃっています。
曾つて、かの摂論学派の別時意趣の念仏観を縁として、古今独歩の批判たる善導大師の六字釈があらはれたやうに、この浄土教批判の刺激を受けて真実の浄土教学の建立せられんことを希念せずには居られない。(『親鸞聖人研究』)
別時意趣というのは、念仏をしても救われないという、浄土教に対する批判ですね。その批判に対して、善導大師が六字釈を出されたわけです。「南無」が願であり、「阿弥陀仏」が行だと。南無阿弥陀仏という六字の名号は願行具足であり、往生浄土を願う行であることに間違いないのだ、という主張です。「正信偈」では「善導独明仏正意」とありますが、そういうふうなかたちでお名号を解釈され、念仏を位置づけられたのです。
この善導大師の六字釈は、摂論学派の別時意趣の批判を受けて生まれました。梅原先生は、野々村先生の浄土教批判を契機として、近代において、真宗とは何であるのかということが、いよいよはっきりするはずなのだとおっしゃったのです。野々村先生の浄土教批判は、大事な意味を持つ批判であると梅原先生はみたわけです。
ところが、先ほど言いましたように、残念ながら十分に議論が展開されないまま問題は終息していったわけです。
「宗教科学」という視点
さて、それでは野々村先生が「宗教」というものをどのように考え、浄土教に対して何故このようなことを主張したのでしょうか。
野々村先生は、東京大学で哲学を学びました。清沢先生の10年後輩です。清沢先生のことも、当然知っておられます。ところが、野々村先生は、宗教、あるいは真宗に対して、哲学ではなく「宗教科学」という方法で取り組みました。宗教科学、Science of Religionです。これは今は、ほとんど使わない言葉です。宗教と科学が一緒になるというような言葉ですね。あえて野々村先生は、これをやるのだとおっしゃったのです。なぜ哲学を勉強していた野々村先生が、宗教科学という方法を取るのか。野々村先生は哲学について次のように語ります。
哲学に至りては、科学と大にその固有の面目を異にする。
哲学は科学と違うのだということですね。
即ち哲学は十人十色を以て特質とするが、科学はこれに反して十人一色なるべきを以て精神とする。換言すれば、哲学は個性の発揮を徹底せしむるところに満足があるが、科学は個性の影響を拒絶するところに成功がある。(『宗教学要論』)
哲学は、10人いれば10人の哲学がある。みなさんもそれぞれ哲学という言葉は使わないにしても、「私はこうなのだ」、「私はこう生きるのだ」という人生哲学をお持ちだと思います。それは、他の者が簡単に否定できるものではないわけですね。けれども科学は違う。10人が10人とも納得できる事実を探すのが科学だと。「私はこう思う」ではなく、みんなが間違いないと言える、10人が1つのものを掴まえることが出来るのが科学なのだと言うわけです。そして野々村先生は、そういう「宗教」を見つけたかったわけです。あるいは、そういうものとして「真宗」を明らかにしたかったわけです。
この当時、先ほど言いましたように、宗教とはいったい何かを探している時代であるわけで、たくさんの人がこれこそが宗教だというふうに言い合うわけです。明治以降ですから、信教の自由ということで、多くの新しい宗教も出てきます。そういう中で、哲学によって個の宗教を明らかにすることは、妄信とどこが違うのか、峻別されないわけです。そういう状況をおそらく意識して、あえて非常に冷たい言葉、嫌な言葉なのですけれども、宗教科学という方法を取るわけです。逆に言うと、「私は宗教哲学という方法を取らないのだ」という形で、近代真宗教学を打ち出そうとした、それが野々村でしょうか。それが「もう一つの近代真宗教学」です。大谷派の近代真宗教学というのは、清沢先生の宗教哲学というものを出発点としました。それとまったく違う形で、野々村先生は近代に挑戦したのですね。
野々村直太郎の宗教観(1)
では何を宗教と見ているか。ここが1番大事なところ…次頁へ