(『浄土文類聚鈔』『真宗聖典』四一一頁)
『浄土文類聚鈔』の「念仏正信偈」(文類偈)にあるお言葉です。この偈文は、『大経』流通分の「まさにきたるべき法滅の世において、釈尊が慈悲によって特(こと)に『大経』を百年とどめるようにする」(取意・『聖典』八十七頁)という内容を詠(うた)ったものです。
宗祖の師である法然上人は、この経言を大切にされ、『大経』をとどめるということは、念仏をとどめるということであると、『選択集』に「特留章(どくるしょう)」を設けて、その意味を尋ねています。また、『西方指南抄』では、念仏がとどまるということについて、中国の故事をだして次のように尋ねています。
その昔、秦の始皇帝が儒教の書物を焼き、儒者を生き埋めにしたとき、「毛詩」の詩だけは残ったという。書物は焼けてなくなったが、人々が詩をそらんじていたので、口々に残ったのである。この話のように経典がすべて無くなっても南無阿弥陀仏は人の口にとどまって百年聞き伝えられるのであると(「法然聖人御説法事」『西方指南抄』上末・取意)。
念仏は口にとどまり聞き伝えられていくと、称名念仏の事実をもって確かめられています。口にとどまるとは、単に口伝えということではなく、「百歳」の言葉に象徴されているように、人の一生にとどまることを意味します。念仏が一生にとどまるとは、どういうことでしょうか。
かつて金子大榮先生が、「特留此経」の文について「聞こえなければならない人間があるかぎり、救いの法は滅びない」(『大無量寿経総説』)と領解されました。「聞こえなければならない人間」とは、煩悩にしばられ、身を煩わし、心を悩ます自身のことです。その私がいるかぎり念仏は滅びない。不尽の煩悩において不滅の念仏がある、ということを教えられます。
人の一生に念仏の声をとどまらせ、それによって済度しようという釈尊の慈悲。宗祖は、念仏に底流する釈尊の慈悲を、南無阿弥陀仏の響きの中に聞き取っていかれたのではないでしょうか。そして、そのなかで讃嘆された偈文が、この一行だったのではないでしょうか。
「念仏正信偈」の依経分を〈ただ釈迦如実の言(みこと)を信ぜよ〉と結び、念仏申す根拠をあらためて仏語に確かめた宗祖。そのことをおもうとき、釈尊が私一人にとどめようとした念仏を、本当に自分自身のこととしていただけているのかどうか。今一度、宗祖が詠われた偈文を通して確かめていきたいと思います。
(教学研究所助手・光川眞翔)
[教研だより(124)]『真宗2016年11月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。