宗祖の言葉に学ぶ
しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝、
そのみにみちみつがゆえに、大宝海とたとえたるなり。

(『一念多念文意』『真宗聖典』五四四頁)

『一念多念文意』は、隆寛律師の『一念多念分別事』に引用される経や論の要文について、その文意を明らかにされたもので、東国の同朋に与えられた宗祖晩年の著述です。
 
法然上人の没後に広がる一念多念の諍いについて、隆寛律師は「きわめたる大事」と重く受けとめ、宗祖は「ゆめゆめあるべからず」と厳しく断じておられます。それは、一念・多念のいずれが正しいのかという問題以前に、この論争の前提となる念仏に対する受けとめが、選択本願の念仏と根本的に異なるからと考えられます。
 
わが念仏義こそが確かな功徳を得られるとする双方の主張は、念仏を条件と捉え、それを満たすことによって「功徳の大宝」という結果を得ようとする”従因向果”の思考の上でなされています。功徳や結果を対象化し、それを求め、それに向かって歩もうとするとき、念仏の教えに照らされるべき自身は不問にされたままです。
 
宗祖は天親菩薩の『浄土論』「不虚作住持功徳」の文意について、念仏の功徳が「金剛心のひと」、つまり「信ずるひとのこころのうち」に、「しらず、もとめざるに」満足するものとして明らかにされます。果徳である功徳が私たちの思いや期待を超えたところにしか得られないというこの教示は、私たちの思考の枠組みを根底から問い返すものと言わなくてはなりません。
 
情報化・消費化に歯止めのかからない現代社会においては、溢れる情報とモノの中で、自分に不足しているものが常に意識させられます。今の自分に不満を抱え、「もっと知りたい」、「あれが欲しい」、「こうなりたい」と結果や理想を求めずにはいられない私たちに、「しらず、もとめざるに」という教言は、非常な力をもって迫ってきます。
 
たとえ、どれだけ多くの知識やモノを手に入れても、心の奥底に残るむなしさを消し去ることはできません。すでにこの身に与えられているものに対して無自覚のまま、外へ外へと欲望を肥大化させてしまう在り方を、宗祖は「むなしく生死にとどまる」(同・五四四頁)と言い当てられます。このように、迷い続ける私たちを呼び返すものが如来の本願に他なりません。
 
仏の本願力に出遇うところに、外から何かを取り込むことでしか自己の存在を確かめることができなかったこれまでの歩みが、「むなしく生死にとどまる」ものであったことに気づかされます。そして同時に、現に与えられているあらゆるものに限りなき恩徳を感じつつ、わが身の事実を主体的に引き受けるものとなるのです。まさに、この目覚めこそが、「しらず、もとめざるに」この身にたまわる
「功徳の大宝」の内実といえるのでしょう。
(教学研究所研究員・本明義樹)

[教研だより(126)]『真宗2017年2月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。