宗祖の言葉に学ぶ
りょうし・あき人(びと)、さまざまのものは、みな、
いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。

(『唯信鈔文意』・『真宗聖典』五五三頁)

僧侶として研修に関わることがある。真宗大谷派教師資格取得の為には、前期・後期合わせて二週間の修練が必要であるし、教区・組でも多くの研修が行われている。そこでは折にふれ、念仏の僧伽・共同体ということが問題となる。その時いつも感じるのは、私自身の現実を顧みると他者に対して「われら」と言えないということである。
 
ひるがえって宗祖の言葉に耳を傾けると、念仏の僧伽を「われら」と述べていることに気がつく。特に『高僧和讃』には、「ひさしくしずめるわれら」「流転輪回のわれら」「煩悩成就のわれら」等と、苦悩の「われら」がたびたび言い表されている。「われら」という宗祖の言葉を聞く時、一つの疑問がわく。私は、「われらと言えない」というところに、落ち着いているのではないだろうか──。
 
さて、今回いただく宗祖の言葉は、『唯信鈔文意』の一節である。この書は、宗祖の兄弟子である聖覚法印が著した『唯信鈔』について独自の了解を示したものである。このたびの宗祖の言葉は、聖覚法印が念仏往生の道理を表す為に示した『五会法事讃』の、
 

彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
但使回心多念仏 能令瓦礫変成金(『唯信鈔』・『真宗聖典』九一九頁)

 
という要文についてのものである。宗祖は、「ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ」という最後の二句について述べるなかで、本願名号を信楽し、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるのは、「具縛の凡愚、屠沽の下類」であると言い、さらに具体的に「りょうし」「あき人」と明示している。
 
宗祖は流罪以降、そこに住む「いなかのひとびと」に出会い、生活をともにした。そして、そこで生きる人々と自身を、『五会法事讃』に示される「瓦礫」、すなわち「いし・かわら・つぶて」のようであると受け止め、「われら」と表明した。社会から排除された人々とともに生きるなかで、宗祖は自らが賢人でも善人でもない群萠の一人であると感じたのではないだろうか。
 
ただし、『五会法事讃』が教示しているのは、瓦礫がそのままであるということではない。本願念仏が瓦礫を変じさせ金にする、と言われるのである。つまり、宗祖が他者を「われら」と見いだしているのではなく、本願の目当てとしての「われら」なのである。それは、次の宗祖の言葉にも端的に表れている。
 

「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり。(『尊号真像銘文』・『真宗聖典』五二一頁)

 
宗祖は、本願が「十方衆生」と呼びかけているのは、まさしく「われら」であると頷いた。それは本願に見いだされた「われら」である。
 
「われらと言えない」と思っている私は、つまるところ、他者を「われら」と言えるか否かという、見いだす側の立場から一歩も出ていないことが教えられる。「われらと言えない」というのは、落ち着くべき場所ではない。
(教学研究所助手・難波教行)

[教研だより(129)]『真宗2017年4月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。