宗祖の言葉に学ぶ
今の時の道俗、己(おのれ)が分(ぶん)を思量せよ。
(『教行信証』「化身土巻」本巻『真宗聖典』三六〇頁)

この言葉は、宗祖が『教行信証』「化身土巻」本巻の御自釈において用いられているものです。この言葉までに宗祖は、三願転入の後、聖道の諸教については「すでに時を失し機に乖(そむ)けるなり」(聖典三五七頁)と述べ、また聖道・浄土の真仮を開き顕かにし、正・像・末法について開き示すということで、時と機(時代と人間)について触れておられます。
 
この表題の言葉においては、出家の者も在家の者も自らの「分」を思量せよということで、穢悪・濁世に生きる者が自らの分際について思い量(はか)り、身のほどをわきまえることを勧めているようにも見えます。しかしこの言葉は、そのような個人的かつ相対的な視点からではなく、仏や真宗の教えによって明らかにされる私たちの身の事実を思い量ることについて述べていると思われます。ところが日常の生活での私たちのあり方は、往々にしてその身の事実を忘却しています。そして自らの知識や経験をたよりに分別妄想し、身の事実から遊離しています。
 
そこから真宗に生きる難しさが知らされるとともに、思い出されるのは、宗祖が「化身土巻」末巻において、外教(仏教以外の教え)における邪偽の異執を教え誡(いまし)めておられること、そして「信巻」では偽の仏弟子として六師外道について詳細に述べられ、外教についての多くの文章を引文されていることです。
 
それらの外教の内容は、宗祖が「邪偽の異執を教誡」(聖典三六八頁)するといわれるように、私たちの執われが問題となっており、自分と無関係ではないことに気づかされます。つまり宗祖が『教行信証』において、あれほどまでに多くの紙数を割いて外教について記されているのは、そこに私たち凡夫の姿があるからではないでしょうか。
 
さらにそれらの言葉は、私たちが異執のなかにあるとともに、外教の影響のもとに生きざるをえない、そのことを自覚せしめます。そしてそのことによって、妄想ではない現実としての、身の事実にかえらしめるためであると思われます。
 
自分自身においても学び続けていると、いかに自らの思考方法や感覚が外教の影響を受けているか、そして表題の言葉が過去のものではないことに気づかされることがあります。今、現代に生きる自らの姿が見出されるためにも、真宗の教え(念仏)にもとづきながら、あらためて東西の外教の思想やその影響を認識する必要性を感じています。それと同時に、真宗の先学たちが、自らの歩む道を明らかにするために、それらを学んでいることが思い出されます。親鸞聖人から現代にいたるまで、先学たちは伝統的に仏教のみならず、様々な宗教や思想に通じ、排他的になることなく、広い視野をもたれています。その姿勢の重要性があらためて思い知らされます。
(教学研究所助手・都 真雄)

[教研だより(131)]『真宗2017年6月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。