宗祖の言葉に学ぶ
それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。
(『教行信証』「教巻」/『真宗聖典』一五二頁)

この言葉に学生時代の私は躓(つまず)いた。「なぜそう言い切ることができるのか」。その答えを追い求めたのが私の真宗学の原点である。
 
寺に生まれてはいても、二男坊でもあり真宗とは無縁と思って生きていた。そんな私が真宗を求めるようになったのは、自分が生きてきた価値観ががらがらと崩れた時、たまたまそこに真宗があったからだった。出遇ったということに疑いはないが、真宗の寺に生まれたから真宗に出遇ったという、その偶然な、運命的な出遇いは〈正しい〉のか?〈真実教─『大無量寿経』〉という命題を問うことで、私は、その出遇いを理論的に根拠づけたかったのだと思う。稚拙ながらも筋道、理論を積み重ねていけば、いつかその〈正しさ〉がわかるに違いない。それが大学院まで行かせてもらって真宗の学びを続ける動機だった。
 
しかし、博士課程の頃だったろうか。いつのまにかそこに空しさを感じるようになっていた。理論がわかるという楽しさは勿論あった。しかし、求めているのはそのような理論ではないと無意識裡に感じており、求めても求めても空しかったのだと思う。
 
そのような時に出遇ったのが、この言葉に対する次のような領解だった。
 

これは親鸞の「独断」である。(毎田周一『無条件の救済』/『毎田周一全集』第四巻・三一頁)

 
仏に依るという仏道に全く似つかわしくない、むしろ反するかのような「独断」という言葉は、理論を求めていた自分にとって衝撃だった。この「独断」という強烈な言葉によって、私の中で、理論への要求が一瞬で色あせた。無論、色あせたのは要求の方であって、理論は別なかたちを帯びて、大事に思うようになった。
 
「独断」というと、通常、独り善がりな断定を想う。しかし毎田周一氏は、続けて言う。
 

「独断」といふことを更にいふならば、独断するとき、親鸞の背後にある真実の生命が、親鸞自身を打破つて、迸(ほとばし)り出るのである。だから却つて独断が真実である。/独断するとき、親鸞を粉砕して、背後の普遍的な、真実なる生命が躍り出るからである。親鸞の私なきところ、その独断は真実である。親鸞の私がないからして、真実教は大無量寿経と顕はされたのである。(同)

 
と。毎田氏のいう「独断」とは、親鸞一人による決断ではあるが、それは「私なき」言明である。むしろ、私が理論を解明し証明する、と考えている私こそが、私に「正しさ」を手に入れようという、独善に陥っている。そこではっきりしたのは、宗祖の言葉に対し、自分を突き動かしていたものが、宗祖の言葉の正しさを証明する〈自分〉という、自己承認への欲求であるということだった。その欲求が、毎田氏の「独断」という言葉によって、枯れ葉のように払われたのであった。
 
それは同時に「親鸞の「独断」」ということに対する強い頷きでもあった。そして、その頷きは、真宗の教え全体への「なぜ」という問いの質を変えさせることとなった。
 
「なぜそう言い切ることができるのか」という問いが変わったのではない。そして学ぶ方法が何か変わったわけでもない。しかし、問いの方向が、命題の弁証ではなく、「宗祖の言葉を生みだしたものに頷(うなず)くことができない。その自己とは何か」ということへと移った。だから理論が意味を失ったのではない。宗祖が書き記した「真実の教」という言葉に頷く道は、「親鸞を粉砕」した「真実なる生命」に私自身が「粉砕」される道、自己を明らかにする道としての理論となった。
(教学研究所所員・鶴見 晃)

[教研だより(139)]『真宗2018年2月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。