宗祖の言葉に学ぶ
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(『歎異抄』第一条『真宗聖典』六二六頁)

便利な機械やシステムが発展し、世間はより「高度な情報社会」になったと言われているが、自分の将来を占いなどの信仰によって知りたいと思う人は多いようである。いやむしろ、現代は、金融やマーケティングにおいても占いを活用するなど、ますます占いが盛んであるとも言われる。
 
親鸞聖人は、仏教徒でありながら、日の良し悪しをえらんだり、占いを好むものについて、「これは外道なり。これらはひとえに自力をたのむものなり」(『真宗聖典』五四一頁)と厳しく批判されている。だから浄土真宗では占いなどを見ないとされてきた。しかし、人々が占いに興じるすがたを冷ややかに見ているだけですまないものが、そこにはあるのではないだろうか。
 
というのも、現代ほど、震災などの災害が頻繁に起こったり、戦争や紛争の起こる可能性など、これから先に何が起こり得るか分からない状況はないからだ。それほど社会における将来の不確実性や言い知れぬ不安があるということである。このような不確実性や不安とどのように向き合っていけば良いのであろうか。
 
『歎異抄』には、親鸞聖人の「念仏を称えようと思い立つ心が起こる時に、すなわち阿弥陀仏の摂取不捨の利益にあずかっている」と語られた言葉が伝えられている。正しく念仏を申さんと思い立ったその時、阿弥陀仏の摂取して捨てない、光明のはたらきにあずかるのである。なぜそのようなことを言われたのか。それは、念仏によって未来の救済を得ようとする、そんな私たちの思いを見すかして、聖人は仰せられたと言える。何でも自分の思い通りにしようと、もがき苦しむ私たちがそこに居る。自分の力で未来を何とかしようとする限り、自分の思い通りにならない現実に、憤りを感じたり、言い知れぬ不安を抱くようになる。そして、自分の思い通りにならないことを、神仏までも利用したり、占いで予測しようとしたりする。
 
そのような私たちに、親鸞聖人は、善悪を選ばずに、無条件に私たちを受けとめようとするはたらきがあること、つまりどんな善行も犯した罪をおそれることも必要なく、たとえどのような私であっても、決して見捨てることなく受けとめようとする願いがあることを伝えようとされているのである。そして、念仏を申すこと、そこにすでにその願いの中に生きていることを明らかにされた。
 
親鸞聖人は、占いにたよることを「自力をたのむもの」と看破された。自力とは自分の思いはからいで実現しようとするあり方である。今、情報社会を生きる者に必要なのは、そのような自分に気づいていく内省ではないだろうか。そして、どんな状況であっても自分を見失わないで生かしてくれる精神の立脚地こそが要請されているのではないだろうか。
(教学研究所所員・武田未来雄)

[教研だより(141)]『真宗2018年4月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。