宗祖の言葉に学ぶ
和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし
(『皇太子聖徳奉讃』十一首『真宗聖典』五〇八頁)

宗祖親鸞聖人の妻・恵信尼公の遺跡(ゆいせき)を伝える大谷派高田教区で勤められた宗祖御遠忌法要のなかで、「恵信尼公七百五十回忌法要」が厳修されました。恵信尼公は、青年時代の宗祖が聖徳太子を信仰する姿を伝えますが、宗祖ご自身は晩年になって聖徳太子を語るようになります。八十三歳頃より書かれはじめた計二百首におよぶ「聖徳太子和讃」、『上宮太子御記』や『尊号真像銘文』(広本)の「皇太子聖徳御銘文」など、最晩年に至るまでその著述は続きました。
 
宗祖は、関東門弟の求めに応じ、当時一般に信仰されていた聖徳太子像をふまえながら、ご自身が「和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし」と謳(うた)われた真宗の聖徳太子像を門弟たちに示されました。では、宗祖は聖徳太子を掲げることで何を伝えようとされたのでしょうか。
 
宗祖が初めて書かれた太子和讃集は八十三歳の『皇太子聖徳奉讃』七十五首でした。「日本国帰命聖徳太子 仏法弘興の恩ふかし」で始まるこの和讃は、日本に仏教を広めた偉人として、当時流行していた太子伝を解説するスタイルで述べられたものでした。その一つである『四天王寺御手印縁起』(以下『御手印縁起』)は、聖徳太子が未来を予言した書物として知られ、寛弘四(一〇〇七)年に四天王寺で発見されて以来、太子信仰や浄土教の興隆に大きな役割を果たしました。
 
『御手印縁起』では、四天王寺の寺地は釈尊説法の聖地であり、また聖徳太子の物部守屋(もののべのもりや)討伐にふれ、仏教が興隆する時、それを謗る者が影のようにつきまとうことを予言します。その上で、自分は死後も転生し仏教興隆・衆生利益をなすこと、四天王寺を通して「一仏浄土の縁」を結ぶことを誓います。この「一仏浄土」は死後に往生する世界ではなく、現世において仏教に護られた寺領として、世俗に影響されない仏土となることを予言するのです。このように世俗に支配されない仏国土(四天王寺)を建立することが縁起の主願でした。この縁起の流行は、鎌倉時代の法然門下の活動にも影響を与えたとされています。この縁起を受けとめ、太子の予言に触発され、行動の動機とすることが、当時の太子信仰のスタイルでもあったのです。
 
ところで、宗祖はこの『御手印縁起』の全てを和讃しているのではありません。この縁起の本来の主願であった「一仏浄土の縁」を結び、世俗と隔離した戒律の場を定めるという予言に宗祖は注目せず、縁起の主願を落として、聖徳太子の「有情利益」「仏法興隆」という功績を讃仰されているのです。「一仏浄土の縁」とは、西方極楽浄土のことですが、そのような一般的な太子信仰を宗祖は正面から否定することなく、和讃から外すことで、「予言」が示すような、現世において特定の「場所」を地上の浄土とする考え方を退けているのではないでしょうか。
 
宗祖が著述に書かれた〈ことば〉をより深く理解するには、そこに登場する人物や、著述の元になった書物を調べるなど、〈ことば〉の源をたずねることも大事です。〈ことば〉として示されていない大切なことが見えるかもしれません。
(教学研究所研究員・御手洗隆明)

[教研だより(145)]『真宗2018年8月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。