第9回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会
リレースピーチ(2013年10月16日~17日開催)
「浄土と国家」
<真宗大谷派山陽教区光明寺住職 玉光 順正>
「人間を忘れない」とはどういうことか

 参議院選挙で圧勝した安倍首相の昨日(2013年10月15日)の所信表明演説は、皆さまもお聞きになったり、新聞等で見られたりしたかと思います。それぞれの受け取り方があるかと思いますが、私は、あの演説は明らかに「3.11」以降、何か新しい考え方、価値観が必要かもしれないと考え、感じ始めた人々に、再び「3.11」以前の「日本を取り戻す」、経済成長以外に日本の未来はないと伝える演説だったと思います。その演説に多くの国民が拍手をして、ついていこうとしています。
 私が「浄土と国家」というテーマを出しましたのは、そのような流れに同調しないで、きちんと異議を申し立て、対峙していくことこそが「人間を忘れない」ということだと考えているからであります。お金でなくて「人間を忘れない」です。
 大谷派のハンセン病問題に関する懇談会が発行している機関誌のタイトルは『願いから動きへ』です。
 この集会をとても楽しみにされていた故・柴田良平さんが、「願いとは思想だ」、そして「動きとは実践だ」といわれたのを覚えています。「思想」や「願い」を「実践」として表現する。そういうことがこのハンセン病問題全国交流集会の一番の基にあるわけです。
 その「思想」ということについて、私は「浄土の思想」ということを考えようと思います。もちろん「浄土」といっても、キリスト教では「天国」といってもいいでしょうか。しかし、それは単に「理想の国」ということではありません。もっといえば、「実践としての浄土」です。「願いから動きへ」ということでもあります。浄土からのはたらきを受けて、私たちが生きていくということは、一体どういうことなのかということです。
 

「念仏申す」とはどういうことか

 『仏説無量寿経』の第1願に、「説我得仏、国有地獄餓鬼畜生者、不取正覚」とありますが、浄土とは地獄と餓鬼と畜生のない国だ、そういう国をつくりたいといっています。地獄・餓鬼・畜生のない国とは、私たちにとって具体的にどういう国でしょうか。
 地獄とは、戦争や暴力であり、そのことがない国を願う。
 餓鬼とは、慢性的欲求不満、貧しさということですが、それは文化的なあるいは知的な貧しさであり、物質的、財的な貧しさ。そういうものからの解放を願うということです。
 畜生とは、差別、抑圧、隔離、排除ということとして捉えようかと思います。
 先日、名古屋駅前でヘイトスピーチがされていました。特に韓国・朝鮮人に対して、それこそ「殺せ」とか、本当に考えられないような言葉が白昼堂々と叫ばれていました。東京や大阪などでヘイトスピーチがされていると聞いたり、インターネット等で見てもいました。直接に出会ったのは初めてでしたが、今そういうことが、あちらこちらで常に起こっている。しかし、知っているけれども、見たくないことは見ないことにする。見えないことは、見ないことにする。本当に大変な状況になっていると私は思います。
 浄土を願って生きるということの具体的な実践とは、そういう動きにきちっと一つひとつ対応していくことだと考えます。それは例えば、今、安倍政権が成長戦略実行国会などということをいい、その動きの中で、一方では「憲法改悪」、「特定秘密保護法」の制定や、「集団的自衛権の行使」など、戦争のできる国への動きがその裏にあります。そういうことに関して、私たちがどのように考え、行動していくのかということです。
 それが実は「念仏をする」ということです。念仏とは、蓮如上人の表現では、「行住坐臥」寝ても覚めても、常に念仏するということです。そういう意味では、私たちの中にある願いを、寝ても覚めても常に表現し続ける。そういう形で、私たち一人ひとりが生きることを親鸞聖人は「浄土を願って生きる」と言っているのだと考えます。
 今回の集会に、韓国国立小鹿島(ソロクト)病院から、台湾楽生療養院から来ていただいております。次回は、中国の満州国立同康院の関係者の方たちも招請できるようにと、その人たちに会いに行く。具体的に民間交流を進めることも、私たちにとっての念仏だと思います。
 それはできるところからしかできない。しかし、できるところはやらなければならないと、私は今、考えています。
 

「真宗」とは仏教を解放すること

 浄土を願って生きる。それは念仏ということです。南無阿弥陀仏とは、そういうことです。浄土真宗とは、決して宗派名ではありません。親鸞という人が、浄土真宗を開いたのは、宗派を開いたのではなくて、仏教を開いたのです。仏教を開いたとは、仏教を解放したということです。ある特定のものであった仏教を解放したということは、仏教もキリスト教もイスラム教も、すべての者たちへ解放された「仏教」として、親鸞聖人は「真宗」という名告りをあげたと私は考えています。
 

《ことば》
62年間続いた私どもの運動も、ここ一両年が山ではないかと考えている

< 神 美知宏 >

 運動の窮極の目標は「偏見・差別の撤廃」と「真の人間回復」です。しかし、私たちの悲願達成は困難を極めており、まだ道半ばです。
 入所者の平均年齢は83歳に達し、残された時間はなくなりました。それでも私たちは、生きてきてよかったという状況を実現して運動を閉じようではないかと考え、厚生労働省や国会へのはたらきかけを続けていますが状況は変わりません。
 なぜかということを常に私は考えています。特に思いますのは、市民の方々にハンセン病問題をご認識いただき、「国のハンセン病政策が誤っていたために、犠牲になった方々が多く、まだ当事者たちの苦難は続いている。国は最後まで責任も持つべきではないか」という、市民からの声が表面に出るか、出ないかによって、国の動きが変わってくるのです。市民が傍観者的な立場でいる限り、いかに正当な要求であっても、不条理な理由があっても解決するのは非常に難しいということを、長年の運動で私たちは学んできました。
 療養所を見学してみると素晴らしく整備をされ、美しい緑も多い。こんな結構な環境のなかで暮らしていく皆さん方は幸せではないかと口にされる見学者も少なからずいらっしゃいます。それはあくまでも外見上のことです。
 今ではみんな苦しい胸の内をお話しすることもなく、「もういい、我慢することに慣れた」とおっしゃるようになりました。これは非常に危機的な現象だと私は思っています。62年間続いた私どもの運動も、ここ一両年が山ではないかと考えているところです。ハンセン病療養所の状況を解決するために、国は責任を取ろうとしないという厳しい現実を皆さんにお話しをして、市民のお立場から国に向かって発言していただくことを、あらためてお願いを申しあげます。
 
 2013年10月、第9回全国交流集会での、神美知宏さん(全国ハンセン病療養所入所者協議会会長)の言葉です。
<真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会・広報部会>

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2014年4月号より