第10回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会にむけて
<真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会委員 中杉 隆法>

 昨年10月に東京で開催された第9回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会の中で、次回は山陽教区でこの交流集会を開催する旨を、教区を代表しその思いを述べさせていただきました。
 東京集会ではハンセン病問題と原発問題とを重ねあわせながら、「人間を忘れない」という大きなテーマのもとでさまざまな人たちが集い、出会い、語り合いました。
 私自身、毎回この集会に参加してきました。本当に久しぶりの方、初めての方、いろいろな方々にお会いできるのがこの交流集会だと思っています。そして、ハンセン病問題という課題をとおして、たくさんのことを学ばせていただきました。隔離ということ、人と人とのつながりや時間、その中に生まれた願いをも切り離していく私たち人間社会のありかたが、原発問題でもやはり浮き彫りになったのだということを確かめさせられました。権力というとてつもない大きな力で切り離された人間が、無関心というまるで空気のように横たわる力によってまた姿を見えなくさせられていく。原発問題というものも、やはり隔離の問題でもあると感じました。
 次回は第10回という節目の集会です。具体的なことはまだ何も決まっていませんが、今考えているのは、隔離から逆にどこまでも開かれたものが真宗であるということを証明していけるような集会にしていきたいと思っています。残念ながら私たちはこの隔離というものの本質を見抜けず、その政策を後押ししてきたという歴史があります。だからこそ真宗を生きる者の名のりこそが、隔離からの解放の名のりでなければならないのでしょう。
 その願いを具体的な動きとして、これまでの運動の中でさまざまな人たちがそのことをあきらかにしようとしてきました。私自身もそれなりに歩んできたつもりでしたが、次の集会を前にもう一度それらを具体的に表現していかなければなりません。時には、真宗大谷派ということがこの運動においてとても助けになったということもありますが、逆にそれが壁となり、勝手な思い込みや思いの押しつけによって回復者の方との距離ができてしまったということも経験してきました。
 しかし今こそあらためて、真宗大谷派はどこにあっても開かれたものとして、その開催する集会はやはり開かれた場所と時間があるものでなければならない。その責任を私は果たしていきたいと思っています。そのためにはこの集会を決して真宗大谷派だけの、あるいは真宗大谷派のためだけの集会にしてはならないということでしょう。宗門内外のすべての人たちにそのことを発信し、認識してもらえるような集会にしていきたいと思っています。
※全国交流集会は基本的に3年に一度、真宗本廟及び全国の教区で開催されています。
 

寄り添う
─ハンセン病問題から教えられたこと
<上岸 了>

  自坊に戻り、何をしていいかわからない時に、教区の先輩から「長島愛生園に行きませんか?」といわれて、何も知らずに行ったのが24年前だったと思います。当時、長島愛生園には橋もありませんでした。幼い頃、私の父親は結核病棟におりました。その風景と愛生園の風景が非常によく似ていました。私も父親と離れて暮らしていましたが、愛生園でも社会から隔離され、親しい人と別れてきた話を何人もの人から聞かせていただきました。
 長島愛生園の隣に光明園があります。当時、大谷派が「謝罪声明」を出し、第1回ハンセン病全国交流集会を開くという時に、「光明園の人たちを誘いに行ってきて」といわれ、吉田藤作さん(真宗法話会)を訪問して参加のお願いをしました。すると「あなたたちは愛生園を訪問しているけれども、なぜ光明園には来ないのか」といわれ、「私が光明園に行かせていただきます」と、愛生園と光明園に一月交代に行くようなりました。その中でいろいろな方と出会ったのです。
 最初の頃、私は自分の父親よりも年上の人から「先生、先生」と呼ばれ、「そう呼ばないでください」といったりしていました。その後、関西の「ハンセン病国賠訴訟」の原告や支援の方と出会った時は、大谷派の私たちのことを「坊主が来た」といっていました。仲良くなると「大谷さん」と呼ばれるようになり、そのうちに自分自身の名前で呼ばれるようになりました。呼び名が変わっていったのです。呼び方が変わるとは、一人ひとりの顔が見えてきたことという思いがしています。
 東日本大震災の時は、入院中の病院のベッドの上でした。石原慎太郎東京都知事(当時)が「震災は天罰だ」といったと新聞で読み、「天罰ってどこかで聞いた言葉やなぁ」と思いました。かつてハンセン病のことを「天刑病」といいました。震災という理不尽でどうにもできないことを「天罰」と石原さんは押さえます。ハンセン病も理不尽で解決できない問題を、神や仏の名で「天刑病」といったのと同じです。石原さんに震災の被害に遭われた方々の悲しみや苦しみや打撃が見えないのと同じように、私たちもハンセン病の人たちの理不尽な苦しみ、つらい思いを全く見失い、「天刑病」という言い方で押さえてきたのではないか。そんなことをベッドの中で思いました。
 ハンセン病問題から、僕は、坊さんとして忘れてはならない一番大事なこと、それは寄り添うということ、それはどういうことかあなたもう一度ちゃんと確認しなさいよ、と教えていただいたように思っております。
※上岸了さんは、2013年8月3日に還浄されました。
(2011年4月第8回ハンセン病問題全国交流集会・分科会での発言抄録/文責・解放運動推進本部)


1988年完成した邑久長島大橋。
隔離の必要のない証しとして「人間回復の橋」と呼ばれている。

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2014年5月号より