ハンセン病問題と福島の子どもたちの一時保養
<解放運動推進本部嘱託 大屋 徳夫>
療養所は今

 今、全国13のハンセン病療養所に1863人(2014年2月現在)、平均年齢は83才を超えた入所者が生活されています。終生隔離をうたった「らい予防法」の下、「ふるさと」を棄てさせられるなど、まさに人生そのものを奪われた中を生き抜いてこられた人々です。その人々のうち3分の2の入所者が、看護や介護を必要とされています。
 1996年の「らい予防法」廃止以来、主なものでも、ハンセン病国賠訴訟、ハンセン病問題に関する検証会議、台湾・ソロクト国賠訴訟、「ハンセン病問題基本法」成立と、「人間回復」の闘いがありました。その結果、国は入所者と「社会での暮らしと遜色のない生活を最後の1人まで保証する」と約束しました。しかし、その約束は守られているとはいえない状況があります。
 入所者は医師や看護・介護の職員の定員割れや公務員定数削減などによる職員減により不自由な生活を強いられています。さらに前述のような闘いがなされたにもかかわらず、「ふるさと」を取り戻したといえる入所者はほとんどいません。家族とのつながりの回復はもちろん、両親のお墓参りでさえままならない状況です。何も変わっていないという現実が続いています。無論、入所者も手をこまねいているわけではありません。全国ハンセン病療養所入所者協議会を中心に、80歳を超えた人々がハンストも辞さないという決意の下、闘いを続けておられます。この声は、「療養所を取り巻く社会にもっと変わってほしい」という叫びに聞こえてきます。1996年、「らい予防法」廃止と同時に、私たちは、「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」を宗務総長名で表明しました。その中で私たち大谷派は何を謝罪したのか。端的に言えば「おおせなきことをおおせ」とし、そのことによって「病そのものとは別の、もう一つの苦しみ」をもたらしたことを謝罪したのです。
 それは、ある入所者の「布教や慰問に来た宗教者・文化人といわれる人の講演会が園内で開かれていた。その時私たち子どもは集められ前方に並ばされた。そしてその中で「諦めろ、諦めろ」と言われるのが一番の苦痛だった」という言葉に収斂されます。
 今、「ハンセン病問題はもう終わった」「まだハンセン病問題?」という雰囲気を感じる時があります。かつて「同和・靖国は真宗の課題だ」という認識が宗門内に広がり、熱意を持ってそれぞれの場での取り組みがなされていました。その熱意が何か冷めてきたと感じた時期と似通ったものを、ハンセン病問題を取り巻く中に感じることがあります。もう一度原点に帰るときではないかと思います。
 

福島の子どもたちの一時保養

忘れてしまいなさいと 誰かが言う これからこの子に降る 雨のことを
忘れてしまいなさいと 誰かが言う これからこの子が吸う 風のことを
忘れてしまいなさいと 誰かが言う これからこの子が口にする 食べ物のことを
そして 忘れてしまいなさいと 誰かが言う
この国は こんなにもあっさりと 人を見捨ててしまえるという事実を
でも 福島 私たちは 忘れない
母乳から 放射能が出たとむせび泣く あのお母さんを
私たちは 忘れない
わが子を 被曝させてしまったと 自分を責めるあのお父さんを
私たちは 忘れない
外で遊びたいとせがむ あの女の子を
私たちは 忘れない
どうか 福島を見捨てないでください たすけてくださいと 叫んだあの男の子を
そして 私たちは 忘れない
この全ては 間違いなく私たち一人一人が原発に加担し 見過ごし 自分たちだけの豊かさに 耽ってきた結果であるという事実を
私たちを 信じきって笑いかけてくる 子供たちに
あやまっても あやまっても
つぐなえない 未来を押し付けてしまう この情けない現実の中で
でも それでも 今 ごめんなさいから始めよう
ナムアミダブツの 風を受けて 原発はあかんと声を上げよう
 

ナムアミダブツの 光を受けて ひとりひとりが輝こう
  忘れなさい 忘れなさいと 誰かが囁く この社会の中で 
デモ 忘れない 福島!
(二〇一二ナムナム大集会「表白」より)
 

 この言葉は、2012年2月9日に真宗本廟(東本願寺)御影堂で開かれた「二〇一二ナムナム大集会」で読み上げられた「表白」です。この集会で福島のお母さんたちの生の声を聞いている時、ハンセン病問題との関わりの中で教えてもらった「沈黙は加担だ、認めていることと同じだ」「動けば動く、動かなければ何事も動きません」という2つの言葉が浮かんできました。そこで今できることは何かと考えた場合、まず子どもたちを守ることではないかと思いました。
 子どもたちは今も放射能の被害を受け続けています。外で遊べない、思いっきり走り回ることができない現実があります。しかし福島を短期間でも離れることで少しは免疫力が回復すると聞き、「自然豊かな菊池恵楓園で子どもたちに思いっきり遊んでもらいたい」という思いが浮かんできました。原発の爆発により「ふるさと」を奪われ、家族がバラバラになり、人間と人間の関係がズタズタにされています。また、そこにはいわれなき差別も顔を見せています。このことは、ハンセン病問題と共通するものがあります。私たちはまた同じ過ちを繰り返すのでしょうか。また他人事とするのでしょうか。
 この2年間、福島の子どもたちの一時保養を全国の5ヵ所の療養所で開くことができました。療養所と福島、つまりハンセン病問題と原発問題が「国家、社会、宗教」を問うものとしてつながりを見せた場であると思います。
 これまでの「隔離」の場が「つながり」の場として開かれていきました。
 入所者の優しい眼差しに見守られて、子どもたちが療養所を駆け回る。このような場を今後も開き続けていきたいと思っています。私にとってこの場が、「過去に学び、未来を想い、今を生きる」場となり、「世をいとうしるし、念仏者のしるし」となるように。
 

訃報
▼二〇一四年五月九日、全国ハンセン病療養所入所者協議会会長の神美知宏(こうみちひろ)さんが逝去された。八○歳。全療協会長として入所者の処遇改善や、偏見差別のない社会を求める運動の先頭に立つた。二〇一一年三月の東日本大震災の直後に「療養所を被災者の救護所として開放」すると発信し(本誌二〇一一年五月号「教団の動き」十六頁)、後に療養所での福島の子どもたちの保養事業につながつた。国の方針で職員が削減される中、入所者の医療介護を保証し、被害回復の施策を後退させることがないよう要求する緊急アピールを準備する最中のことであった。
▼五月十一日、ハンセン病国家賠償訴訟の全国原告団協議会会長の谺雄二(こだまゆうじ)さんが逝去された。八二歳。国による隔離政策の違憲性を訴えた国家賠償訴訟の先頭に立ち、国の誤りを認めた熊本地裁判決(二〇〇一年・確定)を勝ち取った。群馬県の栗生楽泉園にあった監禁施設「重監房」の復元を求める運動に取り組み、四月に「重監房資料館」開館を実現させた。三月に詩文集『死ぬふりだけでやめとけや」(みすず書房)発刊。
お二人の訃報に接し、心より哀悼の意を表します。
(解放運動推進本部)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2014年6月号より