たずねきたらしめたまう御こころざし
(松林 至 教学研究所嘱託研究員)

学生を終え、生まれ育った三河に戻った年の初夏、京都のあるお寺で毎年行われていた三泊四日の聞法会に、人から誘われるがままフラフラと出かけた。そこには御堂いっぱいの人が全国から集っておられた。

 
そこでの休憩中のこと、長年その聞法会に携わってきた先輩が、「これだけの人がはるばる京都に足を運んでくるこの雰囲気ですね」と言うと、隣におられたさらに大先輩が、「それがすべてだわね」と一言だけおっしゃった。それ以上のことは何もおっしゃらなかったし、その方が亡くなられた今となっては、その真意を確かめるすべもない。三人で並んで縁側に座り、境内を眺めながら何気なく聞いた一言であったが、二十年近く経った今でも時折思い出される。
 
最近では「リモート(遠隔)」という言葉がにわかに身近になった。私自身、京都に身を運ぶ機会は激減し、会議に加えて研修会までもがオンラインで行われている。対面が叶わないのであればせめてリモートでもという思いと、もの足りなさとの狭間で大いに戸惑っている。
 
『歎異抄』第二章の冒頭に説かれる関東の門弟方の旅路は、求道の姿というものを今日まで具体的、そして象徴的に伝えてきた。
 

おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。  (『歎異抄』聖典六二六頁)


ここで親鸞聖人は、おのおのが「身命をかえりみず」「十余か国のさかいをこえて」ここまでこられたのは「ひとえに往生極楽のみちをといきかんがため」だと、たずねてこられた門弟の、問い自体を明らかにしておられる。そして、はるばるたずねてこられたという事実を深く受け止め、そのこころざしに「御」の字をつけて「御こころざし」と敬っておられるのである。たとえ自身のなかではっきりしていなくとも、その「御こころざし」がその人を突き動かしているのだ。 

現代の京都までの新幹線移動などを引合いに出して、ここでの「身命をかえりみず」ということばは現代人にはわからない、といった言い回しをこれまで何度も聞いた。それはその通りだと思う。旅路の過酷さは私には想像も及ばない。オンラインという環境においてはいよいよ「十余か国のさかいをこえ」る直接の苦労は共有できないだろう。しかし、新幹線であろうがオンラインであろうが、いつでもそれは、たずねずにはおれない「御こころざし」の中身を自らが明らかにしていく歩みであることに変わりないのではないか。 

確かに今はオンラインの環境への戸惑いはぬぐえないし、大きな変化である。しかし、聞法の場で常に私に投げかけられてきたのは、「往生極楽の道をあきらかにしたいということが、あなたをここへ押し出してきたのではないのか」との問いかけであったことに今、改めて向き合いたい。

それは、あの初夏にフラフラと京都に出かけて行った私が、大先輩から聞いた「それがすべてだ」とのことばを今一度受け止めていくことでもある。
 
(『ともしび』2022年1月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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