善德寺

福岡県行橋市の南部にある泉校区。古くからの農地と新しく整備された住宅地が混在しており、校区の西側には京都平野を潤す 「今川(いまがわ)」が、東部には「祓川(はらいがわ)」が流れ、 南側には古墳や桜の名所で有名な「八景山」を望む。そのような自然や文化が豊かな場所にある「貴國山 善德寺」に訪問させていただいた。

◆伝統の味「辛大根」

いつも明るく笑顔が絶えない村上住職(上列中)とご家族

善德寺の開基は1573(天正元)年、一説には1572(元亀3)年まで遡り、2018(平成30)年に住職継職された現ご住職の村上良樹住職が第21世となる。この歴史あるお寺では毎年、御正忌報恩講の際に「辛大根」という辛い大根がお斎等に出されている。伝統の味として門徒の皆様や近隣のお寺のご住職からも楽しみにされており、毎年12月に勤まる善德寺報恩講の風物詩にもなっているという話を耳にし、このたびご家族にお話を伺った。


「辛大根」とは大きな鉄鍋にコモという藁で編んだ敷物を敷き、その上にブロック状に切った大根を置き、大量の唐辛子と一緒に8升の醤油で一昼夜焚き上げたものであるという。夜中にコモをひっくり返し、火を消した後の余熱で一晩置くことが非常に大切だと前坊守は言う。「焚き上げている最中はものすごい匂いと辛い湯気のため目が痛くて開けられなくなる」と語ってくれた。仕上がりは真っ黒になった大根。食べるととても辛いがご飯のお供やお酒の肴にはぴったりな味。


大根に大量の唐辛子をのせる住職
コモにのせた大根と唐辛子
一昼夜焚き上げる際の辛い湯気
出来上がりの真っ黒な大根

2020年は新型コロナウイルスの影響により作ることが出来なかったそうだが、なぜこの「辛大根」を毎年、善德寺報恩講の風物詩として開催しているのか由来をお尋ねした。すると亡き前々坊守もわからないくらい昔から受け継がれているそうで詳しくはわからないが、おそらく京都でいくつかの寺院で行われている「大根焚」が由来ではないかという。

伝承によると、鎌倉時代の1252(建長4)年、浄土真宗の開祖である親鸞聖人が愛宕山中の月輪寺に師である法然上人の遺跡を訪ねた帰り、京都府京都市右京区鳴滝にある了徳寺を訪れ、村人たちに教えを説き、その教えに感銘を受けた村人たちがお礼に塩炊きの大根を馳走したという。親鸞聖人はそのもてなしに応え、すすきの穂の束を筆代わりとして、鍋の残り煤で「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」という十字の名号を書いてそのお礼として残された。この故事に因んで行われる報恩講の通称が「大根焚」になっている。(法輪山了徳寺ホームページより)

各地域によって料理方法や味付けはさまざまだそうだが、辛い理由として、昔は徒歩での長旅が多かったので出来るだけ長く保存できるよう保存食としてつくられていたからではないかといわれている。

毎年大変な作業にはなるが、先達から受け継いだ伝統の味付けを守り続けていくことが大切なのではないかと住職は言う。

「世の中大変便利になってきたがその分心は貧しくなっている。」

住職の祖父(前々住職)がよくおっしゃっていた言葉だそうだ。

時代の変化に伴い、便利なものが増え、手間暇かけなくても楽にできることが増えてきている。しかし、負担にはなるが手間暇かけるからこそ当時の時代背景を感じ、先達のご苦労を受けとめ感謝していくことができる。だからこそその思いを見失わないように伝統の味を守り、維持継続していくことを大事にしていると語ってくれた。

◆伝道の歩み

また、善德寺では毎月28日にご門徒の方々と「同朋の会」を勤められている。『同朋新聞』を読み、法話を聞き、座談会等を楽しく行っているという。参加人数が少ない時もあるが、この同朋の会もとても重要な聞法の場と考え、途切れることなく50年続けられているという。このたび長きにわたり、教化活動に尽力されてきたということ本山から「同朋の会結成50年表彰」が授与され、善德寺を会場に九州教区主催の表彰式が行われる予定となっているそうだ。


聞法の様子
同朋の会の様子

20年以上この同朋の会に参加しているご門徒の𠮷(よし)(ひろ)(たか)(のり)さんは、

「前住職の呼びかけを受け参加したのが始まりです。楽しいことは、毎月1回みんなと顔を合わせて近況等を語ること。また法話を聴聞すると気持ちが洗われるような感じがして、すがすがしい気分になる」と語ってくれた。

「辛大根」や「同朋の会」等の教化活動、長い歴史をかけてその伝統や伝道を守り続けていく住職やご門徒姿からは、先達の思いを大切に生きておられることが伝わってきた。現代、新型コロナウイルスの影響もあるがたくさんの地域の行事や仏事等が簡素化、省略化されることが多くなってきている。現状やむを得ないことではあるが、再びもとの生活に戻った時に以前の姿に戻ることができなくなるのではないかと心配になることもある。楽になった分、手間暇かからなくなった分、大切なことを見失っていくのではないだろうか。昔から受け継がれてきたものを守り続ける、先達が残してきてくれたものを受け継いでいくということは実は私たちに大事な事を見失わないよう教えていただいていることではないかと思う。

「世の中大変便利になってきたがその分心は貧しくなっている。」

深い頷きと問いを今回の取材で感じさせていただいた。

(九州教区通信員 蓮井英信)