映画「一人になる」
―高橋一郎監督、鵜久森典妙プロデューサーを追悼する―
「一人になる 医師小笠原登とハンセン病強制隔離政策」制作実行委員会・呼びかけ人 山内 小夜子
小笠原登医師は、国の強制隔離政策の中、京大病院で通院治療を続け、豊橋病院への転勤後は、自坊の圓周寺の庫裏・太子堂でハンセン病患者の診察をされました。その太子堂が「耐震工事のために取り壊される」と知った小松裕子さん(大阪教区ハンセン病問題を共に学ぶ実行委員会)が、「せめて映像で残せないか」と友人に相談したのが始まりでした。有志による制作実行委員会ができ、高橋一郎監督に撮影を依頼しました。話し合いの中で「映像記録」でなく、小笠原登医師の事績に学ぶ「映像学習資料」の作成をとの方向が見えてきました。
おそらくこの時すでに高橋一郎監督は、学習資料ではなく、「映画」の制作を決意されていたのだと思います。その後の高橋監督は、小笠原登師の残した論文や書籍を収集し読み込み、故郷甚目寺町(現在の愛知県あま市)の圓周寺の歴史を訪ね、ハンセン病に関する法律や歴史の専門家を取材し丁寧に話を聞き取り、小笠原医師に診察を受けた回復者の方々の声の掘り起こしに全力を注ぎました。コロナ感染状況の中にあって、ぎりぎり数ヵ所のハンセン病療養所の撮影・取材も実現し、資料では語れない部分は劇団名古屋、劇団神戸の方々による演劇の力によりながら、映画の骨格が固まりました。
私も、取材に同行したことがありました。夏の暑い日でした。小笠原登師の孫弟子にあたる和泉眞藏氏に対し、「診察の時、患者さんにどのように触れるのか、私の身体で実際に」と、着ていた服をさっと脱いで横たわったのには驚きました。身体のどの部分を、どういう手つきで触診するのか、診察の実際をカメラマンに撮影するようにと指示、撮影した映像は、劇団員の小笠原登役の方に見てもらうということでした。ドキュメンタリー作家として、徹底した実証をもとに製作をすすめる監督の矜持を垣間見る思いがしました。
■病とともに安心して生きていける社会
高橋監督は日大芸術学部映画学科を卒業。1984年に鵜久森典妙氏(プロデューサー)と自主制作映画グループを結成され、35年間にわたり14本のドキュメンタリー映画を制作。デビュー作の「24,000年の方舟」(1986年)は、プルトニウムの半減期「24,000年」をタイトルに、事故がなくても核のゴミをうむ原発の問題点を浮き彫りにしました。「本当の豊かな生活とは何か」を問いかけた「奇妙な出来事アトピー」(1991年)は、日本記録映画作家協会賞を受賞。個人の暮らしを通して社会問題を見つめ続けた骨太の作品を次々と発表されています。ハンセン病回復者の証言を中心にすえた大作「もういいかい─ハンセン病と三つの法律」(2012年)は、「病とともに安心して生きていける社会」のために、ハンセン病問題は繰り返し語られなければならないとし、国の終生絶対隔離政策の枠組みを作った三つの法律を根本から問う作品でした。このような経歴から考えると、小笠原登医師の映画は、まさに高橋監督をして生まれるべくして世に出された作品と言えるのかもしれません。
■依らず、一人になる―小笠原登の姿
高橋監督は小笠原登師について「三つの顔があった」と、次のように語っています。
小笠原登には医師、国家公務員、僧としての三つの顔がある。
医師として「ハンセン病は治る」「伝染病ではあるが強烈な伝染病ではない」と主張した。ハンセン病を不治で強烈な伝染病とする国の規定は迷信であるとし、国の強制隔離政策とは相容れなかった。「旧癩予防法」「新らい予防法」では医師として患者を療養所へ入所させる義務があったが、積極的には入所を勧めなかった。患者の声に耳を傾けながら処方箋を書く。入所を忌避する患者に対しては病名を変える、病名を書かないなどの手段を編み出した。ハンセン病と診断されれば強制隔離しか選択肢のなかった時代に、通院や入院という別の選択肢を示す。これは今日的なインフォームドコンセントのさきがけとも捉えることができるだろう。国策に与する学会から迫害を受けながら屈することがなかった。
国立大学、国立病院、国立療養所の医師として国家公務員の一生を貫いた。公務員としては戦前・戦中から戦後も続いた無らい県運動に協力する義務があったが、自らの主張に基づいて「良心的非協力」を続けた。
小笠原は真宗大谷派の僧でもあった。真宗大谷派は国の強制隔離政策に当初から積極的に参画しており、患者隔離の急先鋒だった。故に小笠原を無視することはあっても評価することなどなかった。しかし小笠原は揺るがなかった。権力や権威、多数に依らず、一人になることを怖れなかったのである。
(『小笠原登物語』メイキングニュースより)
「一人になる」というタイトルは高橋監督のこの言葉から生まれたものでした。
■優生思想は今も生き続けている
「ハンセン病の背景には、国の優生思想があります。差別する心がダメなんだという道徳の問題ではありません。らい予防法が間違った社会構造をつくってしまった結果、ハンセン病への差別が人々の中にしみこみ、内面化してしまった。それが問題なんです。ハンセン病の元患者家族が2016年に起こした国家賠償請求訴訟でも、ほとんどの原告が名乗れなかった。国に勝訴し、補償を受け取ることができるようになっても名乗れない」「残念ですが、優生思想は今もはびこっています」
(『神戸新聞』2021年6月6日)。
高橋監督が最期に残された言葉です。6月4日の上映初日、舞台挨拶やシンポジウムに登壇した後、最後に「優生思想はいまも生き続けている。これを何とかしないと、同じことが起きる」と強い口調で問題提起された後に倒れられ、亡くなられました。あまりに突然のことに思考停止のような状況が続きました。ハンセン病問題の背景にある優生思想を批判し、「今日の社会もぬぐい去れていない」と語られた高橋監督。コロナ感染状況中で同調圧力が高まる中、小笠原医師の生き方や高橋監督の言葉から私たちは何を学べばいいのだろう。あらためてそんなことを考えました。
■「映画は完成からがスタートです」
高橋監督との朋友であり同志の鵜久森典妙プロデューサーも、まるで後を追うかのように11月6日にお亡くなりになられました。鵜久森さんは私たちに「映画は完成してからがスタート。観客と一緒につくるもの」とよく語られていました。二人の映画人が残してくれた「一人になる─医師 小笠原登とハンセン病強制隔離政策」。各地で上映会が開催され、多くの方々に観ていただきたいと思います。
※自主上映については、「一人になる」制作実行委員会までお問い合わせください。
【https://www.hitorininaru.com/】
真宗大谷派宗務所発行『真宗』2022年3月号より