演劇「空白のカルテ」からハンセン病を学ぶ

劇団名古屋 谷川 伸彦

 「いつかハンセン病をテーマにしたお芝居を創りたい!」

 そう考えたのは忘れもしない2010年1月3日夕刻、長島愛生園の納骨堂前で3600人余りの魂と向かい合った時だ。愛知県甚目寺町(現あま市)から依頼を受けて、町の人達と創っていた創作劇「空白のカルテ~ハンセン病強制隔離に抗した医師・小笠原登~」の本番は2週間後に迫っていた。

 この創作劇のお話があったのは前の年、春頃だったろうか。甚目寺町出身の小笠原登医師を主人公に、ハンセン病をテーマにした芝居を創る…正直、あまりピンとは来なかった。それどころか「ちょっと差別のひどかった病気」という認識しかなかった僕には、魅力的なテーマとは感じなかった。こんな調子だから、心も何もない、ただ台詞を口にしているだけの稽古が過ぎていった。しかし、そんな僕が劇的に変わっていったのは、奇跡とも言える様々な出会いがあったからだ。栗生楽泉園で暮らしていた詩人桜井哲夫さん。彼を支え共に高めあった金正美さん。この二人がハンセン病の入り口に立たせてくれた。そして多磨全生園の副自治会長だった佐川修さん。彼の話がきっかけとなり、他の療養所も訪問したいと思った。そんな思いを受け止め、療養所の扉を開いてくれたのが、愛西市明通寺の北條良至子さん。この人達との出会いなくして長島愛生園にたどり着くことはできなかった。

 2010年1月2日、意気込んで岡山に入ったものの、いざ、「人間回復の橋」を前にした時、足は一歩も前へ出なくなっていた。怖かった。50歳手前にもなって、ハンセン病のことを何も理解していない自分を、入所者の方達はどう受け止めてくれるのか? そんな心配をよそに、受け入れてくれた愛知県出身の3人の方達は、とてもあたたかかった。丸2日間、話を聞き洩らしてはいけないと必死だった。そしてお別れの時、一言でも声を発すると泣いてしまいそうなぐらい感情があふれていた。ハンセン病に罹った人達、親戚・家族がどれほど酷い偏見差別を受けてきたのか、人間扱いされていなかったのか、何も知らなかった、いや知ろうともしなかった。あれほど橋を渡ることが苦しかったのに、今度は帰ることができなくなってしまった。島を車で回って、もう一度、と納骨堂に向かった。そして、そこでやっと気がついた。ハンセン病の人達をこの納骨堂に追いやったのは「自分」だと。謝っても謝り切れない。自分でできることを自問した。やはり演劇人である以上芝居で描くことだと。だからこそ目前に迫った芝居を良いものにしなくてはいけない…やっとこれで舞台に立てる。舞台に立つことを許された、と思った。

舞台「空白のカルテ」

 それからは療養所訪問をはじめ、勉強会や講演等でハンセン病の啓発活動を続けてきたが、具体的な芝居創りはできずにいた。なんとなく手詰まりを感じていた2018年、「ハンセン病問題を共に考える会・みえ」から「空白のカルテ」の公演依頼があった。そのまま上演するには無理があり「この際、小笠原登先生をもっと掘り下げてみようじゃないか」ということになり、ごとうてるよ(劇団名古屋団員)が中心になって書き直しが進められた。目標は11月に予定した秋公演。三重は翌年の1月。ごとうが書き上げた台本は、小笠原登先生を中心に話が進んでいく。しかし、同時に療養所のことも描かなくてはいけない。我々にハンセン病に罹った人達を演じることができるのか? そこで、物語の語り手でもある大谷藤郎役と小笠原登役以外は全員、「役」ではなく「私」。「私」が芝居の進行と共にハンセン病を学び、語っていく、という手法を取った。簡単に言えば、小笠原さんのシーンは芝居、療養所シーンは出演者による朗読とした。この芝居は名古屋、三重、あま市と三ヵ所で上演。約1200人の方に観てもらい、観客は愛知県以外で、九州、山口、岡山、京都、大阪、三重から集まってくれた。これだけの広がりを持てたのは劇団始まって以来のことではないかと思う。お客様からは「ハンセン病の理解が進んだ」「初めて知ることが多く感動した」「療養所を訪問したい」などの声が寄せられた。

映画「一人になる」撮影の様子

 この芝居をきっかけに、映画「一人になる 医師 小笠原登とハンセン病強制隔離政策」への出演依頼があった。監督の「ハンセン病としっかり向き合ってきた人達に出演してほしい」という言葉は嬉しいものだった。映画は、役者による再現シーンを交え、小笠原登医師とハンセン病問題を丁寧に追っていく。同時に、コロナの状況下で生きる我々に重要な示唆を与えてくれている。名古屋では一週間上映され約350人の方に観てもらった。残念だったのは、監督の高橋一郎さん、プロデューサーの鵜久森典妙さんに名古屋に来てもらえなかったことだ。

 お二人の訃報に接し、心からお悔やみ申し上げます。

 さて、先に触れたように「空白のカルテ」はおおむね好評であった。しかし、当事者の方達からは批判もあった。言葉に尽くせない人生を歩んで来られ、ハンセン病問題の解決に向け現在も闘い続けている。そんな彼らに寄り添った芝居を創るにはどうすればよかったのか? スタッフ・キャストは精一杯想像力を働かせ、命を削って芝居を創ってきた。しかし、現在進行形である問題を描く難しさもあった。例えば「空白のカルテ」には家族の問題が描かれていない。また、わかりやすく見てもらうためにはフィクションも必要となってくる。そこにリアリティを持たせることができていたのか? いや、そもそも「寄り添った」などと考えること自体が傲慢なのだろうか?

 劇団名古屋は6月に再びハンセン病を取り上げる予定だ。前述したような、創造していく上での問題を解決することができるのか。また、ハンセン病問題を未来につなげていくことも大切なテーマとなろう。

 「空白のカルテ」最後の台詞は「僕たちのハンセン病への旅はまだまだ続きます。」とある。まさに芝居を創り続けていく限り、この葛藤は続いていくことになるであろう。

  

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2022年4月号より