ハンセン病問題とコロナ差別

「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」広報部会委員 稲葉 亮道

  

県で初の感染確認

 今でも忘れられない。2020年2月、私の暮らす街で初めて、新型コロナウイルスに感染した方が出た。これは県内初でもあった。感染した方に海外渡航歴がなく、マスコミが「県で初の感染確認/五十代男性/症状重く入院」と大々的に報道したため、街に不安が広がった。すると、感染した方が住む家の場所や家族構成、職場などが噂話として一気に広まった。「防護服を着た人たちが住んでいるマンションを消毒していった」、「通勤に使っている駅が消毒で真っ白になっていた」という話まで聞いた。しかし、私が聞いただけでも、住んでいるとされた場所は4ヵ所もあった。人の噂話ほど曖昧なものはなく、だからこそ言いようのない恐ろしさを感じた。同時に、国策で行われたという点は異なるものの、かつての「無らい県運動」とある面では同じだと考えた。それは、一般市民が集団で一人の病気で苦しむ人を炙り出すという点だ。

  

人間の闇

 コロナウイルスに感染すると、私や家族、お寺はどうなるのだろうか。この街では生きていけなくなるかもしれない。当時、私はそればかりを考えていた。今思えば、私は冒頭の方が後遺症なく、無事に退院されることを心から願うべきであった。そして、誰でも感染するかもしれないと発信しなければならなかった。私は一人の人を見失い、自分さえ良ければいいと考えていた。まさに、ハンセン病問題が浮き彫りにする人間の闇と同じだ。

  

不安

 あれから二年半が経った。国や自治体、マスコミは感染した方の個人情報を出さなくなった。しかし、「感染者が住む町名までは出さなくても良いが、せめてどこの校区なのか、どこのスーパーを使っているかを知りたい」という声を聞いた。近くには海外から来た人たちが多く住み、働く地域がある。すると、その地域に感染が広がるたび、「外国人のせいだ」と言われる。最近、私は「感染したら、ここでは生きていけない」という相談を受けた。実際、家族の一人が感染した方は誰にも知られないよう息を潜めて生活されていた。お参り先で目の当たりにした姿だ。また、私の知人は「職場の同僚が他県に車で出張へ行ったところ、二度もパンクさせられた」と話した。「感染者数」が多い県のナンバーを付けていたからだ。

  

一人の人を見失う

 ところで、一人の人を見失うという点で言えば、私の周りにはワクチンを打てない人が数人いる。そのうちの一人の方はアレルギー疾患を抱えているため、医師から接種を止められたという。しかし、国や自治体、マスコミはワクチンを打つよう強く勧める。パンデミックが起きるのはワクチンを打たない人がいるためだと言い、打つのは「大切な人を守るため」と繰り返し宣伝している。この方は「苦しい」と静かに言われた。

  

疑問

 これらのことから、多くの疑問が込み上げてきた。なぜ、人は一人の人を見失うのか。自分さえ良ければいいと考えてしまうのか。なぜ、感染した方の無事を願うことができないのか。なぜ、誰でも感染すると分かっているのに差別をするのか。近くでは、感染した方の家が建つ通りから人がいなくなった。しかし、冷静に考えれば、家の前を通っただけでは感染しないと分かるはずだ。それでも、家を避けるのはなぜか。なぜ、ワクチンを打てない人が苦しまなければならないのか。

  

どちらの側に

 ハンセン病回復者の方との交流を続けている信濃毎日新聞社の記者、畑谷史代氏は次のように書かれている。

 「うつらない病気なのに社会から排除した」のは明らかな間違いだった。

 では、仮に「うつる病気」なら、どうなのか。「排除はやむをえない」としてしまうのか。それとも、「排除してはいけない」と踏みとどまるのか。あなたは、私は、どちらの側に立つのだろう─

(『差別とハンセン病─「柊の垣根」は今も』平凡社新書、二〇〇六年)

 つまり、ハンセン病は「うつらない病気なのに社会から排除した」。このため間違いであった。では、「うつる病気」なら「排除はやむをえない」のだろうか。コロナウイルスが蔓延し始めた当初、「隔離」の必要性が叫ばれた。そして、一般市民が患者を見つけ出そうとし、「自粛警察」や「コロナ自警団」と呼ばれる人たちまで現れた。また、感染源かのように「夜の街」も叩かれた。そして、現在、コロナウイルスの感染力は増し、国内でも「サル痘」という病気に感染した方が出始めた。しかし、忘れてはならない。そこには一人の尊き人がいることを。この先、私は「排除してはいけない」と踏みとどまることができるのか。世の中の空気に流されることなく、抗うことができるのか。自身に問い続けている。

  

お大事に

 フランス・パリ在住のエッセイスト、とのまりこ氏は書かれている。フランスに住む人たちは「コロナになっても隠さない」と。そして、身近な人が感染しても一つの事実として淡々と受け入れ、「大丈夫?」、「どんな症状なの?」、「その後どうなった?」、「仕事の方は大丈夫だった?」などの会話になるという(ウェブサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』より)。これは、フランスの限られた一面かもしれない。しかし、私はそのような温かな会話をしたい。思えば、どのような病気であれ、その患者は一人の人として適切な治療を受け、地域社会に温かく見守られなければならないだろう。つまり、病気になっても「お大事に」、治療を受けて帰宅した際は「お帰りなさい」と声を掛け合いたい。病気で苦しむ患者やその家族、医療従事者が差別を受けるなどあってはならないのだ。また、ワクチンを打てない人や打たない人も大切な一人の人だ。接種しないという選択も尊重されるべきではないだろうか。さらに、海外から来た人や病気が蔓延している地域の人、感染源とされる場所で働く人たちも差別してはならない。

  

願い

 今、私は心から願うのだ。差別のない、人が一人の人として大切にされる温かな世を。これは、私がハンセン病回復者の方やそのご家族から頂いた願いである。どのような病気が広まろうとも、この願いに立ち返らなければならない。

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2022年10月号より