おはようございます。先回は自力とは分別――考えること――である、ということ、また、それは「わたしがいること」であるというお話をいたしました。今日はその有り方を、少しお話したいと思います。
「私に生きている価値はあるのでしょうか」、こういう問いがあります。ここには大きな誤解があります。それこそが人間であるという病い、つまり自力に基づいているのです。私を見ている私がいるのです。私を見て「生きる価値があるかどうか」と考えている、自分自身を見ている私がいるのです。それを世の中の言葉では、「客観的に」物事を考えることができると言うのです。生まれたときには別ではなかったものが、言葉を覚えるにしたがって、いつの間にか「わたしのいのち」「わたしの人生」「わたしの体」というように、「見ている私」が、「見られている私」の主人になるのです。これは避けられないことです。
当たり前のことですが、こういう力を持っているのは人間だけです。この力は死を目の前にして得られたという考え方があります。つまり、死んだ人を見て「この人は亡くなっている」とわかったとき、それは同時に「この人は亡くなっている」と「わかったわたし」が生まれた・発見されたということになるのです。自我、つまりわたしと世界は同時に誕生するのです。仏教ではそれを我と我所、つまり「わたし」と「わたしのもの」と言います。
実は、そこにはもう一つの事件が同時に起こっています。それは、「この人は死んでいるとわかったわたし、を見ているわたし」、つまり「自分も死ぬのだと知るわたし」、自分自身をも世界の一部として見る、つまり、客観的に外から自分を見る自分が生まれたということです。そこから先の問いが生まれます。「自分とは一体何か」「自分の人生に価値があるのか」と。これが自力のかたちです。
仏教には「卑下慢」という大事な言葉があります。卑下とは、さげすむという意味です。慢とは、「自慢」の「慢」で「思い上がり」ということです。仏教においては「自分はだめだと評価すること、落ち込むことが思い上がりである」ということです。いまお話したように「自分はだめだ」と反省できるのが人間であることですし、それは実に、今の繁栄と進歩をもたらした人間の素晴らしい能力でもあります。しかし、仏教は、それを思い上がりであるというのです。なぜでしょうか。こういうことなのだと思うのです。「自分はだめだ」と言っているのは何者なのかということです。だめだと言える、ということは「正しさ」を知っている者が別にいなければなりません。その別の者、実はそれも自分以外にはおりません。だからそれは自己評価にすぎないのです。自分が善悪の物差しを持って、自分や世界を裁いているのです。「自分はだめだ」と言えば、それがわかっている「正しい自分」の存在が主張されることになってしまうのです。だから「思い上がり」なのです。どれだけ落ち込んでも、片方では、自分をさげすみ、貶めている「正しい自分」がいるのです。ですから、それは思い上がりなのです。そしてそれが自己反省、つまり自力的あり方に過ぎないとわかったとしても、それをわかった自分が、その外側に生まれて、自分を眺めているだけなのです。自らがだめであるとわかった、正しい私が、どんどん外側に生まれるのです。どうしたところで「自分の思い」を離れることができない。それが人間であれば必ず持っている病い、自力であり分別なのです。
生きている人生の内容そのものが「わたし」なのです。他にはありません。それなのに、それを前にして受け入れる、受け入れられないと言うことができると思ってしまっている誤解、それが人間の自力という有り方なのです。それは、「今、いのちがあなたを生きている」のではなくて、「わたしが、いのちを生きている」というあり方なのです。