おはようございます。前回はお釈迦さまの課題も、親鸞さまの課題も「生死出づべき道」である、ということをお話しました。生死とは生まれ死ぬと書きます。ところで、そこで問題になるのは、なぜ、生死が苦であるのか、また、生死とはどのようにできているのかということ、もう一つは現代の私たちの「死んだら終わり」という「生死観」も迷いであるということでした。
実はそれは先に述べたように、自分自身やその人生を、評論家のように外から眺めて、自分の人生を受け取れないということが、原因となっているのです。それが人間であるということであるとも話しました。自分自身が死ぬということに対して、死ぬ自身を受け入れられない、死を持った自分の人生を受けとることができないのです。そうして、そこからの救いを求め、死を先送りし、生を未来に続けるために考え出されたのが生死・輪廻です。つまり死んでは生まれかわるという考え方なのです。それは自分で、死ぬ自分を嫌う有り方です。そうしてそれを見ている自分を何とか温存したいというむなしい努力なのです。しかし、その考え方はある意味では、救いになっていた部分もあったでしょう。
ところが、今度は、よい輪廻をするということが問題になってくるのです。手段であった生死・輪廻が目的になってしまうのです。つまり、この世に生きている間の行いが、次の世での境遇を決めるという考え方が現れてくるのです。善い行動をしたものがよい生まれになるという考え方です。そこには、必ず報いが欲しいという人間の暗さが感じられます。そうなると、生きている間に、悪を行わない人はいるでしょうか。胸に手を当てて考えてみたらわかります。そこで輪廻を目的とした、輪廻に縛られる生き方が始まるのです。
自分の人生を受けとる方法としての生死・輪廻には、もう一つの方向があります。一つは今述べた未来への方向、もう一つは今の境遇を受け入れるための過去に遡る方向です。それは運命論になります。それは自在天外道と呼ばれたり、自在天とは万能の神のことです、また、誤った宿業論である宿作因外道などとよばれています。「神様が決めてしまっているから」とか「過去の行いで決まってしまっているから」という形で、みずからの今のあり方を受け入れていくものです。人生は必ずしも思うとおりになりません。さまざまな違いがあります。その理由を過去の生涯や神様に求めて、何とか自分を納得させようとするのです。こういう考え方は、手を変え品を変え、途切れることなく、いつも私たちのそばにあります。何とか自分の人生を受け入れたいのです。しかし、そこには自分の人生に対する無理な執着が感じられますし、やはり人間の暗さが感じられてしまいます。
繰り返しますが、ここで問題なのは、すべて自分の人生を外から眺めて、善い悪いと言っているありかたです。見ている自分が、思うとおりにならない自分と分かれて、それを見捨てているあり方です。まさに自力の構造、分別の構造です。その中で過去の生涯といっても神様といっても自分自身の価値観、つまり「見る自分」の延長にしか過ぎません。それは仏教から言えば無我から離れた「迷いの我」が有るということです。そこから生死・輪廻が生まれるのです。死んだら終わりというのも同じです。見る自分が分かれてしまっていることは、変わらないのです。人生はこの生涯だけというのは、この人生へのより深い絶望が示されていると考えることもできるでしょう。執着しても絶望しても、この人生を、外から眺めている自分を信じているということは変わらないのです。自分自身に自分が縛られてゆく、これが分別であり自力の正体です。人間は、構造上、自分自身の存在全体を受け止めることができないのです。分別によって引き裂かれているのです。引き裂かれていることを知っても、そこにとどまりきれずに、常に見る自分の側に立ってしまう。私たちには自力しかない、悪人であるという言葉の意味はここにあるのでしょう。