おはようございます。今日は、自力や分別の問題を、お釈迦さまの出家の動機を通して、考えてみたいと思います。皆さんもご存知だと思いますが、お釈迦さまの出家の動機については「四門出遊」の物語がよく知られています。じつは、この物語は後の時代になって作られたと考えられています。そのもとになったと思われる古い経典があります。
お釈迦さまが自らの青春の時代を回想して弟子たちにこうおっしゃっています。「比丘たちよ、わたしはまことに細やかな心遣いをもって養育された。」と。お釈迦さまは王子さま、ですから、最高の住まいや、最高の衣服をあたえられていたとおっしゃいます。そこに、こういう言葉が続きます。「比丘たちよ、わたしはこのように恵まれており、このように細やかな心遣いをもって養育されたのだけれども、次のように考えた。」と。「けれども」とおっしゃるのです。最高の暮らしをしているのだ、けれどもというのです。続いて「凡夫すなわち世間の愚かな人々、おのれ自身老いるもの・病むもの・死ぬものであって、老い・病まい・死を避けられぬ身でありながら、他人の老い・病い・死を見てあざけったり厭ったりしている。わたし自身も同じく老い・病み・死ぬものであって、それらを避けられぬ身である。そうでありながら他人の老い・病い・死を見てあざけったり厭ったりすべきであろうか。これは正しいことではない、と。私はこのように考えて、若さに対する空しい誇りと健康に対する空しい誇りと生存に対する空しい誇りとをすべて棄てた。」と。
つまりわたしたちは老いを嫌い、若さを求め、若さを誇ります。病に対しては健康を、死に対しては生存を求め、誇ります。しかしもともと若いということは年をとる、老いるということです。健康であるということは、いつでも病気になるということです。そして、生きているということはいずれ必ず死ぬということです。どれもひとつのものさしの両端なのです。しかし、なぜか私たちは、別のこととして捉え、善悪の価値をつけてしまいます。有無の見ということです。もう一つ別の経典があります
比丘たちよ、わたしもまた、実に、ほとけとなる以前まだ正しいさとりを得ていない菩薩であったころには、おのれ自信、生まれ老い病み死ぬ性質のものでありながら、同様に生まれ老い病み死ぬ性質のものを求めていた。おのれ自身、生まれ老い病み死ぬ性質のものであるなら、生まれ老い病み死ぬ性質のものの中にわざわいあるを知り、生まれることなく老いることなく病むことなく死ぬことのない、悲しみなくけがれのない、無上な、静寂な涅槃を求めねばならないではないか、と。 |
ここに言われる、「生まれ、老い、病む性質のものでありながら、生まれ、老い、病む性質のものを求めていた」という言葉がわかりにくいのですが、これも同じことです。私たちは、若さや健康や生存を求めるのですが、それもいずれは老い、病み、死ぬものであるということです。だから涅槃を求めたいとおっしゃっているのです。しかし私たちは若さ、健康、生存を善いこととして、老い、病、死を嫌います。そして自分自身の人生を、その自分の善悪の物差しで量り、裁き続けるのです。それは他の人にも同様です。善悪の物差しを振りかざして、裁き続けているのです。
ですからお釈迦さまは老いず、病まず、死なない涅槃を求めるとおっしゃるのです。そこにはもちろん若さもなく、健康もなく、生存もない、無我なのです。それは第1回目の放送のはじめに引用した親鸞さまのお言葉の中の最初の「無義」、つまり、言葉で現わされるものはない、ということです。それに対して、「私がいる」ということ自体が、物差しを創ることであり、義があるということです。私たちの生き方はそこを離れることはないのですが、なんとか知ることだけはできるのです。