おはようございます。白山です。四回目のお話をさせていただきます。
この世に生を受け、昨年で五十年の年月を過ごしました。半世紀、時の流れの速さはまことに凄まじいと思います。それはまた、確かなことに出あえずに日々を空しく過ごしたあかしなのでしょうか。
人生にはその歳が訪れて初めて開く心の風景があるのではないでしょうか。五十になって魂に染み入る言葉があります。
人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり。
一度生を受け滅せぬ者のあるべきか。
人間の一生は、時も内容もまるで夢、幻のようにあっという間に過ぎていく。そして一度この世に生を受け、死なない者などどこにもいないのだ、という幸若曲『敦盛』の一節です。一の谷の戦いで、源氏の武将熊谷直実は、平家の十六才の武将平敦盛を捕え、その若さゆえ逃がそうとしますが、敦盛の心意気に感じて、首を切ることになります。これは敦盛のかくごの生き様が、かえって直実の人生最大の問いになった言葉でした。事実彼はこの後、兜を脱ぎ、法然上人の下で出家し沙弥法力と名のります。かの織田信長は、桶狭間の戦いの出陣の折、この敦盛を唄い舞い、今、ここが死にどきと士気を鼓舞し勝利するのですが、本能寺の変では、明智光秀の謀反によりその身を焼かれながらこの敦盛を唄い舞い、夢・幻の如き人生の真相に目覚めていったと言われています。本能寺の変の際の「敦盛」は後世の創作のようですが、彼の不安を抱えた人生の士気を鼓舞したこの一節は、時至って彼を目覚めさせる大きな問いとしての本来の一文となったと私は思いたいのです。
その上で私は問います。私においてはどう問われてくるのでしょうか。五十年確かに人として生きてきたのでしょうか。世間では一生勉強だ、などと言いますが、これは人生の大半を、学ぶべきものを見つけ得ないまま、すでに学んだことにしてしまった、そういう届かぬ思いの後悔の形なのかもしれません。生きて学ぶべきは何でありましょうか。直実の、この言葉にかくれた問いの大きさに、人間に願われた真実を感じます。
昨年、真宗大谷派では2011年の親鸞聖人七百五十回御遠忌の記念事業の一つである、親鸞聖人の御木像、御真影を安置する御影堂の御修復工事が終わり、久しぶりに二重屋根の大伽藍が姿を現しました。その間、阿弥陀堂に仮住まいをしておられた親鸞聖人の御真影も、9月30日の、御影堂に還っていただく還座式をもってその本来の場へもどられました。その折、記念法話を担当された大谷大学名誉教授の廣瀬杲先生は、85才の身を奮い立たせて「精一杯話をさせて頂く」と説法獅子吼、精力的に法話されました。それは先生の全生涯を掛けての信心の表明であり、全人類へ、本来へ還ろうとの呼びかけでもあったのでしょう。語り終えたとき、御影堂一杯の拍手が起こりました。ただ、拍手には、我が意を得たり、我が思い通りと言う面もあるように思われます。しかし我々念仏者の歴史は、仏さまの語る南無阿弥陀仏の教えの前に、永い間私を迷いの闇に閉じ込め続けた、我が思いが、木端微塵に砕かれ、拍手の代わりに合掌・念仏の声響く場がそこに開かれる事実を、見続けて来たはずです。それこそが、我々自身に絶えず繰り返される、生活のまこと、本来の居場所へ、問われ願われる場所へ、還り続ける人生の儀式なのでしょう。それが生きるということなのでしょう。
親鸞聖人において、ごまかしのない、ご自身の本来の姿は、愚かで何の役にも立たぬ「愚禿」という言葉で表現することが出来ます。愚禿という言葉は、親鸞聖人以前から仏教の歴史的言葉でしたが、何故、聖人の専売特許のように言われるのでしょうか。それは聖人の、あそびの無い、真の自覚の名のりだからです。その名のりは聖人の絶望でした。念仏に出遇い、その懐で初めて自我に絶望し得たのです。
以前からお寺の法座にみえられる方々が、自我の深さを突きつけられて涙し、しかも希望に充ちて帰られることが不思議でしょうがありませんでしたが、真の絶望は、歩むべき道の開いた喜びでもあるのでしょう。そして私達は、念仏との出遇いでしか、自我に絶望出来ないのだと思います。私達は一生を掛けて念仏の下に初めて、捨てられぬ、どこまでも我がままな、自分の思いを捨てはてて、広やかな真の居場所、真の希望に歩み出て、そして満たされます。自我に絶望出来るだけの大いなる希望、本願が、我々の生まれ出たこの学びの場には深く用意されているのです。