ラジオ放送「東本願寺の時間」

白山 敏秀(北海道 生振寺)
第6話 「呼び声」 [2010.1.]音声を聞く

おはようございます。白山です。担当して最後のお話となりました。
いのちはどんな人の上にも偶然なものであると思われますが、法話の前に読む三帰依文、これは南無阿弥陀仏のいのちを深く敬い生きるという意味で、仏という目覚めた人、法という目覚めのはたらき、僧という目覚めた仲間の三つの宝として表現するのですが、その三帰依文の最初にしるされる「人身受け難し今すでに受く、仏法聞き難し今すでに聞く」これはこの偶然性を表すことばでありましょう。
「人身受け難し今すでに受く」とは、両親がまれな確率で出会ってあなたが生まれたのだとよく教えられましたが、そういうことではなくて、その内にもっと深いものを表現しようとしているのでしょう。それは、私はどうして生まれてきたのか、どうして生きているのか、私とは何者なのか、それが「人身受け難し」です。自分を問うはずのない私の中に、自分を問わずにおれない心が偶然に誕生する。これは、私は親の願いを生きていたんだという気付きです。オギャーと生まれたその時にすでにこの身の形あることを以前から不思議に思っていました。この身を形作る物質は、宇宙の始まりビッグバンから気の遠くなるような長い年月、星が出来ては崩れそれを繰り返し、やっと出来たものです。その、私と縁もゆかりもない物質たちがこの肉体の誕生に際して、寄り集まり百年の我が人生を支えることを決めたのです。
形あるものには必ず願いがあります。それならば私のこの身の形は、私にどうあってほしいのでしょうか。親から頂いたこの身自体が願いのカタマリなのです。逃げられない、わが身の現実に問われて、初めて自分のことが気にかかる、それが人としての誕生なのです。親からもらったこの身が気にかかって、我が人生が気にかかってしょうがなくなるのです。皆さんのそういう誕生は一体いつだったのでしょう。
そして「仏法聞き難し今すでに聞く」、これは「人身受け難し今すでに受く」に応えて来るようなものとして、阿弥陀仏の願いの声が「ごまかさず、本当に満たされて生きなさい」と私の中に、私の奥底から響いてくる。それは、阿弥陀仏の願いこそが、私を本当に満たす願いだということです。親の願いに気付いた、問われし私の中に阿弥陀仏のいのちの願いがはっきり呼びかけて来ます。本当に生きたいと生まれる。これが私なのです。
数年前、祖父の五十回忌の縁にあいました。その折、父の兄弟は法要の予定日を占い師にみてもらい予定日の変更を強引に要求して来ました。住職である父は、寺で生まれ育った彼らを非難しましたが、来ないという者を引っぱって来ることも出来ず法要は別の日におこなわれたのでした。
当日導師を命じられた私は、父の思いを胸におじ・おばのことをさんざん皮肉り、「お念仏をもうす者が、自分の為だけの気休めの占いを気にしてどうする」となじりました。法事の後の会食の席で、おじ・おばは「やあ甥っ子にやられた」と苦笑いしきりでしたが、座の中一番憔悴していたのは父でした。そして私の杯を受けながら「お前の言う通りだ。私はこの歳まで自分の為にしか生きて来なかった、じいさんが死んで五十年やっとその声が聞こえた。気休めで生きていたのは自分のことだった」と涙を流していたのです。私は願いのありかを見た思いでした。
実は、この私を問うてくる親の願い、そして本当に生きよという仏様の本願、この二つこそ私が生きている動機でしょう。親と仏様に呼ばれて私があったのです。お釈迦様が菩提樹の下に引き据えられたのは親の願い、そこで本当に生きよ、本願に生きよ、本願こそがお前のいのちだと。その時が、後生大事に握りしめてはなさなかった自分の思い込みのふっとぶ瞬間です。そしてこれが、偶然が必然に変わる瞬間です。待ちかまえていたものがあります。それが親であり、仏様です。私を待って待って止まぬ、いのちがあります。私の中に本当のいのちを芽吹かせる為に。ありがとうございました。

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