おはようございます。江戸時代の初めに京都で東本願寺を創られた第12代教如上人のご生涯について、六回にわたってお話をさせていただきます。そのご生涯は、親鸞聖人の教えを伝えるという強い意志に貫かれていました。四月に教如上人の400回忌をお迎えするにあたって、戦いが日常化していた時代と向き合いながら、親鸞聖人とともに生きた57年のご生涯を振り返ってみたいと思います。
教如上人のご生涯を六つの出来事からみていくことにします。今日は、教如上人が本願寺を継ぐべきと意志を固めた得度についてです。得度とは髪を剃って僧侶になることをいいます。得度は永禄十三年、西暦1570年、二月十六日、13歳の時でした。当時、男子が一人前になったことを祝う儀式を元服と呼びます。だいたい14、5歳から17歳で行われていました。子どもから大人への仲間入りを意味します。教如上人も得度によって、これまで御児様(おちごさま)と呼ばれていましたが、父顕如上人の後継者を意味する新御所様に改められました。得度によって、一般の元服と同じように、一人前の僧侶としての歩みが始まったといってもいいでしょう。
この得度について、教如上人が直接語った言葉は残っていません。得度の様子を記した記録をみていくことによって、教如上人の思いを推測してみましょう。まず得度の時期です。この年の二年前、織田信長が足利義昭を奉じて京都に入り、将軍家の再興がなったのです。そのため本願寺には献金が要請されました。これによって信長の実力が天下に知れわたったのです。政局は流動的でしたが、どうにか安定していました。こののち本願寺は信長と戦うことになりますが、この時点では敵対するとは思ってもいない状況でした。そのため教如上人の得度は十分に準備することができたのでした。
顕如上人の場合は慌しいものでした。父証如上人が、教如上人には祖父に当たる方です、病を得て、亡くなる前日に、12歳で急ぎ得度を行なったのです。おそらく十分な準備ができずになされたとみられます。これに比べて、教如上人の場合は予定されたものだったので、自覚も徐々に高まっていたのではないでしょうか。
この頃、すでに本願寺は門跡となっていました。門跡とは最も寺格の高い寺院で、皇族や上流貴族の子弟が住職をつとめました。このことは単に本願寺の貴族化ということではなく、存在が社会に認知されるうえで必要であったと、当時の人々は考えたのでしょう。得度によって教如上人は、新御所様と呼ばれることになったと前にのべましたが、本願寺が門跡となっていたことから、新門跡とも呼ばれることになるのです。本願寺では最初の新門跡です。そのため教如上人は、みずからの意志と関わりなく、当時の社会でよく知られる位置にいたのです。
ここで教如上人の内面に迫ってみましょう。得度は子刻、つまり真夜中の十二時前後に、父顕如上人の見守るなかで行われました。場所は大坂本願寺御影堂で、宗祖親鸞聖人の御木像、御木像は敬意をこめて御真影とお呼びします、この前で、わずかのあかりのなかで、髪が剃られました。厳粛な儀式であったようです。
親鸞聖人の面前で、少年から大人へ、僧侶への歩みを始めることになりました。本願寺第8代蓮如上人は15歳で真宗の興隆の志をおこしています。教如上人もどのような志をおこしたのでしょうか。親鸞聖人の御木像が移ってわずか27年の大坂本願寺の興隆を思うとともに、親鸞聖人のおしえを学ぶことを強く決心したと思います。この強い自覚が以後の波乱に富む人生を生きる基点となったのです。いささか推論がすぎたようですが、教如上人の得度の意義を以上のようにとらえておきます。