おはようございます。本日で教如上人をめぐるお話は最後となります。教如上人の念願であった、御真影とお呼びする親鸞聖人の御木像をお迎えできたことについて申し上げたいと思います。
慶長八年、西暦1603年、正月三日に親鸞聖人の御木像が京都に到着、教如上人は堀川に架かる御堂橋まで迎えに出ました。喜びにあふれた出迎えでした。教如上人46歳の時です。この御木像は、上野、いまの群馬県、厩橋の妙安寺に安置されていました。親鸞聖人が関東より上洛する際に、形見として同寺に与えたという由緒をもつ、東本願寺にふさわしい御木像です。御木像の動座、つまり移動は徳川家康の取りはからいによるところが大きく、十四日に教如上人は伏見城におもむき、家康に礼を述べています。
さて家康の動きをみていくと、二月に征夷大将軍となり、浄土宗知恩院の作事を命じています。東本願寺には経済的援助を与えていませんが、知恩院と同じく家康取り立ての寺院であることにはちがいありません。家康による寺社政策のあらわれです。三月に家康は朝廷を訪れたあとで、東本願寺に立ち寄っています。これによって東本願寺の永続がより確実なものとなったのです。
翌年には親鸞聖人の御木像を安置する御影堂が完成しました。前年には阿弥陀堂ができており、早くも両堂が揃ったことになります。かつて教如上人が大坂籠城の際にうったえた御木像を安置する場所を、みずからの手で再興できたといえます。御影堂建立にあたっては、各地の門徒に助力を求めています。その御手紙が各地にのこっていることで、教如上人の心情を察することができます。
教如上人のもう一つの仕事として、各地に別院と呼ばれる寺院を建立しています。その本堂には、御木像を正面から写した親鸞聖人の肖像画が安置されました。この肖像画を等身御影、または真向きの御影と呼んでいます。親鸞聖人の存在を広く知らせようとしたのです。親鸞聖人のお姿を通してそのおしえに触れることができるようにとの思いから、各地で別院の建立が進められたのでしょう。
慶長十九年、西暦1614年、十月五日、教如上人は57年の生涯を閉じました。教如上人の死を伝え聞いた貴族の西洞院時慶は、「七条隠居ノ門跡、薨ぜらるの由に候」、つまり「京都七条の隠居ながらも門跡である教如がおなくなりになったとのことである」と日記に書き入れています。みずからの意志で隠居したわけではないのですが、当時の人々は教如上人を隠居の門跡と呼んでいたようです。そして上に七条を付けていることから、東本願寺の存在も広く認知されていた様子がわかります。
後世の人が教如上人の人と為りを次のように言っています。教如上人は戦火のなかで成長し、能弁で真宗のおしえをよく知っていたと評価しています。能弁、つまり弁舌が巧みであったことで、信長・秀吉・家康という三人の天下人とわたりあえたのでしょう。また大坂退去以来の教如派の形成にも影響したといえます。
真宗のおしえをよく知っていたことも重要です。これによって親鸞聖人の御木像の座す場所を守らなくてはならないとの主張が生まれてきたのだと思います。そして父顕如上人やみずからの肖像画に、加える言葉として親鸞聖人の著作『浄土文類聚鈔』から、「必ず無上浄信の暁に至れば、三有生死の雲晴る、清浄無碍の光耀朗らかにして、一如法界の真身顕る」の四行を引用しています。無上の信心をたまわったならば、迷いの世界を離れることができ、清浄にして妨げられることのない光を放つ如来が現じてくださると、信心の大切さを示す親鸞聖人のお言葉を書き添えています。真宗の再興とは信心の回復にほかならないことを、教如上人は語りかけているのです。