ラジオ放送「東本願寺の時間」

木越 祐馨(石川県 光琳寺)
第三回 秀吉の命じた隠居音声を聞く

 おはようございます。前回は教如上人の大坂籠城についての決断をお話しいたしましたが、今朝は父顕如上人のなきあと、本願寺を継いだにもかかわらず、わずか一年も満たずに、天下人豊臣秀吉の命で隠居させられたことを申し上げます。文禄二年、西暦1593年、閏九月十三日夜、上人は秀吉から大坂城に呼び出しを受け、ただちに秀吉のもとへ向かわれました。ここで隠居を申し渡され、承諾せざるを得ませんでした。教如上人、36歳の時です。教如上人の生涯において大きな転換点でした。
 ここで教如上人の大坂退去から隠居までの歩みを簡単に触れておきましょう。退去後は中部地方の内陸部で身を隠しながら支持する門徒をまとめていました。本能寺の変で織田信長が自害すると、教如上人は父顕如上人のもとに赴き和解し、新門跡として活動できるようになりました。天正十九年、西暦1591年、秀吉の寄進によって本願寺が京都堀川に移ると、翌年顕如上人が死没しました。そして教如上人が後を継いだのです。
 さて、教如上人の隠居について、当時の貴族の日記から、経緯をさぐってみましょう。初めは上人と母如春尼の不和から始まったようです。この争いは本願寺のなかで解決できませんでした。そこで如春尼が秀吉に訴えたのです。おそらくこの段階で、教如上人の隠居と20歳年下の弟准如上人の住職就任を、如春尼は秀吉に提案していたのではないでしょうか。如春尼の動きは早く、准如上人をともない、大坂に向かいました。主な家臣も同日に下っています。教如上人だけが遅れて、秀吉の呼び出しによって、ようやく赴くことになりました。この時点で教如上人の敗北は決定的であったといってよいでしょう。
 秀吉は教如上人の女性問題を理由としました。真偽は定かではありませんが、隠居させるための強引な理由というべきでしょう。しかし、教如上人は秀吉からの呼び出し、隠居の命令に衝撃を受けたようです。当時京都では教如上人が自害したとの噂が広まっていました。この噂を聞いた貴族の西洞院時慶が見舞いのため人を遣わしているほどです。
 自害の噂から教如上人の心中が推しはかれます。京都堀川での本願寺建立は、顕如上人が亡くなる直前に阿弥陀堂が完成していました。親鸞聖人の御木像を安置する御影堂の完成をみずからが果たすと教如上人は決意していたと思います。大坂籠城の際に主張した親鸞聖人のおしえを受け継ぐというこを具体化させるはずでした。しかしこれを実現することはできませんでした。教如上人は秀吉の呼び出しからわずか五日で隠居の身となってしまいました。新たな門跡は弟准如上人でしたが、いまだ16歳であったため、事実上母の如春尼が本願寺を主導したとみられます。不和で隠居となった教如上人が、本願寺の活動に関与することはできなかったでしょう。
 隠居直後の教如上人の様子は明らかではありません。三ヵ月後の顕如上人一周忌では、当然ながら弟准如上人を中心につとめたようです。そこには教如上人の姿はみえませんでした。当初は隠居としての振舞をどうすべきか、教如上人は悩んでいたにちがいありません。准如上人方も教如上人をどう処遇すべきか、苦慮していたと思います。
 本願寺住職の隠居は第8代蓮如上人以来のことです。蓮如上人は隠居でありながらも主体的に活動していました。この蓮如上人の姿を教如上人は思い浮かべ、蓮如上人を手本としようとしたのではないでしょうか。それは世間と離れて静かにくらすのではなく、親鸞聖人の教えを受け継ぎ、広めることをなすべきと考えたと思います。やがて教如上人は精力的に動き始めます。それは准如上人方を大いに困惑させていくことになりました。

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