ラジオ放送「東本願寺の時間」

木越 祐馨(石川県 光琳寺)
第二回 御座所を守る大坂籠城音声を聞く

 おはようございます。前回は教如上人の得度の意義を多分に推測をまじえてお話しました。今回は教如上人にとって最初の大きな決断について申し上げます。教如上人の書かれた、書状から読み解いてみたいと思います。
 その決断とは、天正八年、西暦1580年、23歳の時で、大坂本願寺からの退去を拒否して籠城することです。閏三月二十一日にこの決断を父顕如上人に伝えています。
 教如上人が籠城という決断にいたった背景をさかのぼってみましょう。教如上人が得度した年である元亀元年、西暦1570年、九月、本願寺と織田信長との合戦、いわゆる石山合戦が始まりました。天下統一を目指す信長に反対する勢力と本願寺が同盟し、合戦と和睦が繰り返されました。天正四年(1576年)五月からは籠城戦となり、毛利氏の水軍・雑賀一揆の支援をうけて戦ったほか、全国の門徒に支援を求めました。
 しかし戦況は本願寺に不利となり、和睦がはかられ、天正八年三月に正親町天皇の仲介で実現しました。和睦といっても、事実上の本願寺の敗北です。信長はまず大坂本願寺に籠城したすべての人々を許すという惣赦免を掲げるなど七ヵ条の条件を示したのです。これに顕如上人も応じ、退城を約束しました。
 ところが教如上人は退去せず、あくまでも大坂本願寺を守ると宣言したのです。その理由は、信長に渡すことは、これまで親鸞聖人の御木像を安置してきた尊い場所を、信長方の軍馬のひづめにかけられることになるので堪えられないというものでした。そしてこの場所を守ることで、親鸞聖人のおしえを受け継ぎ、あともどりさせないという強い決意を述べています。ただし顕如上人に反抗するものではないとして、みずからの行動を個人的なものではなく、大義によるものであると主張しました。
 教如上人の決意を知った顕如上人は驚いたことでしょう。親鸞聖人の御木像のお供をして、ともに退城するようにと書状で伝えています。もはや二人の間では直接面談することはなく、お互いの意志は書状で交換するような状態となっていました。
 閏三月二十一日、教如上人は顕如上人に籠城の意志をはっきりと申し入れました。このなかで退城を親鸞聖人の教えの滅亡といい、信長を仏法の敵である法敵と呼んでいます。主張はより先鋭的となっています。23歳の若き教如上人の純粋さがあらわれているのではないでしょうか。
 和睦の破綻をおそれた顕如上人は予定を繰り上げて四月に、親鸞聖人の御木像を奉じて退城し、紀伊国鷺森に入りました。
 退去直前の顕如上人から面目を失ったと叱責された教如上人でしたが、どうしても信長を信用することはできませんでした。教如上人の脳裏には、伊勢長島の一揆・越前の一揆が信長によって殲滅させられた事実があったのでしょう。信長の和睦をめぐる行動には、表裏、つまりおもて・うらがあるとの思いを拭いきれなかったようです。この不安を全国の門徒に訴え、籠城を続けました。
 しかし守るべき親鸞聖人の御木像の存在しない堂舎にのこったことについて、教如上人はむなしかったのではないでしょうか。ついに八月には教如上人自身が退城することになりました。退去後の大坂は二日にわたって炎上したと伝えられています。
 教如上人は籠城を断念しましたが、籠城の決断にあたって、親鸞聖人の御木像を守護することはおしえを受け継ぐことにほかならないと確信したと思います。教如上人にとっての大切な確信でした。

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