ラジオ放送「東本願寺の時間」

池田 徹(三重県 西恩寺)
第一回 生きる「意欲」音声を聞く

 本日から、6回にわたりましてお話するご縁をいただきました。よろしくお願いいたします。お話の内容は、「生きる意欲」-「苦悩する力」というテーマを根っこに想いながら、お話をしてまいります。
 ご縁のあった、ある女性は、3人のお孫さんを育てなければならない境遇になりました。大変なことですが、使命感と責任感に燃えて、一生懸命関わりました。子どもたちも、すくすく成長していきますが、大きくなるにつれて、おばあちゃんの言うことをあまり聞かなくなります。女性は、イライラしがら、疲労感にも襲われますが、それでも「私が頑張らなければ」と、言い聞かせながら、生活をされていました。
 ところが、この女性が「難聴」と合わせて、「緑内障」という病に出遭っていきます。耳が聞こえにくい、目も見えにくいということで、家族から、「外へ出て行ったらダメだ」と言われ、「買い物も行かなくてもよい。料理もしなくてよい、包丁を使うのも危ないから、等々」と結局、「何もしなくてよい、部屋でじっとしていて」、と言われます。「することもない、楽しみもない」と、女性は、それはもう、がっかりしていきます。お会いする度に「張り合いがない、生きている意味がない」と言われて、意気消沈していきます。その後、病状も悪くなり、「生きていても、迷惑を掛ける、生きていることに価値がない、張り合いがない」と、いよいよ失望感に苛まれ、居場所もないと、言わんばかりでした。「なぜ、こんな自分になってしまったのか」と恨みと、愚痴に呑み込まれていきます。大変つらい思いを抱えていきました。
 人は、多少苦しいことであっても、「必要とされている、役に立っている」と思い、そこに「意味」とか、「責任」を感じることができれば、意欲し、生きていけます。ところが、私たちの意欲は、状況からの意欲、条件的意欲ですから、状況が変われば、意欲も意味も萎えていきます。いつでも、どこでも意欲できるわけではありません。
 この問題は、この女性だけの課題ではありません。「現代」は、形はさまざまですが、生きる意欲を喪失している時代ではないでしょうか。意欲といっても、内実は、女性が言われた、「生きることの意味」が見出せないということです。まさに「現代」は、その生きることの「意味」を見いだしにくい状況ではないでしょうか?
 少し前になりますが、毎日新聞2009年11月27日の特集記事に、増える学生や生徒の自殺に関して、「自分の弱さや、駄目さ、ネガティブな感情を家族に出せず、自分でなんとかしないと、と強く思い、なんとかできない自分に価値がないと思っている」こどもたちのことが取り上げられていました。また、同じ記事の中で、「人からの評価によって自分を保ち、自分自身がどうしたいのかが分からない。自分を生きているという実感は、感じにくくなる」とも指摘されています。
 改めて、生きる意欲、生きる意味を見いだせないで、失望感や、虚無感に呑み込まれていく時、一つのパターン、形があるのではないかと考えています。それは、「自画像」と「現実の自分」との分裂ということです。自画像とは、ここでは、「自分は、こうあるはず、こうあるべき」という「思い」や「価値観」のことです。「現実の自分」というのは、文字通り、「いま現に在る事実」です。自画像と現実の自分が一致している時は、それなりに、意欲できます。「現実」と「思い」の分裂が深ければ深いほど、意欲喪失、意気消沈していくことになります。
 たとえば、私ならば寺の住職をしています。住職は、「こうあるべき、こうでなければならない」、という自画像、思いをもっています。それは時には、理想像でもあります。その理想通りの自分であれば、優越感にもなります。そこにはそれなりに意欲は与えられています。しかしその理想像、自画像とは、かけ離れていく自分に出会うと、途端に自分を軽蔑します。そして落ち込んでいきます。今度は劣等感です。そこでは自画像こそ自分だと思い込んでいるのです。そうでなく、「だめな自分だ」と見られている私こそが、「事実の私」であるのです。
 意欲喪失の根っこは、自画像「思い」、自分の価値観を「絶対化して、疑わない」という、ところにあると教えているのが、お念仏の教えです。念仏は、「現実の自分」に還って、そこから、歩み始める「力」を与えるという教えです。どんな問題でも、「現実」に向き合うところから始まります。

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