ラジオ放送「東本願寺の時間」

池田 徹(三重県 西恩寺)
第五回 「願い」に生きる音声を聞く

 念仏の教えは、生きる意欲という問題をどのように教え示されているのでしょうか。それは、「願」、願いということで表しています。「本願」という言葉です。本願ということは、阿弥陀仏の願いということですが、阿弥陀仏の願いは、私のいのち、存在のもっている「さけび」を言い当てています。
 私たちの日常生活は、さまざまですが、目先のことに翻弄されています。「このままでいいのか」、「いったい、自分はどうなりたいのか」。そういうことを思いつつも、立ち止まり考える間もなく、毎日の生活に、また気分に流されています。そういう私に、深い本心を言い当て、「本当にしたいこと」を教え知らせるのです。
それは私に先立って、私を見抜き、その私が何を願い、何を求めているのかを、すでに言い当てているのです。その教えに目覚め、気づくということにおいて、本願という、志願が明らかになるのです。その「願い」生きる、それが意欲です。
 では、その「願い」がどう明らかになるのでしょうか。それは自分が一体、どんな生き様になっているのか、が明らかになることにおいて、はっきりしてくるのです。我々は、自分のことは分かっているつもりになっていますが、本当ははっきりしていないのではないでしょうか。自分が明らかでないから、その自分が何を願っているかが明確にならないのだと思います。
 「願い」とは、今の在り方と反対の形で現れてきます。たとえば、人の評価を気にしながら生きる私は、人の顔色を窺ってばかりいます。そうすると人間関係も萎縮し、疲れ果ててしまいます。そう生きてきていることが知らされる時、「のびのび、自分らしく生きたい」ということを願わずにおられないのです。自分の生き方全体が、教え知らされる時、同時に「願い」、「さけび」が聞こえ、明らかになってくるのでしょう。
 改めて「私」とはどういう存在なのでしょうか。「私」とは単独で、私自身それだけで成り立っているわけではありません。今の私にまでなってきた歴史、私の考え、価値観を形成してきた社会や人間関係等、無数に存在しています。「私」という存在は歴史性と社会性をもって、いまここにあるのです。その歴史、社会の中で埋没し、社会が善としたものをそのまま善として受け入れ、社会が悪としたものをそのままで悪としてしまい、流されながら生きてきたのではないでしょうか。
「自己」という主体性を持てずに生きてきたのではないでしょうか。
 しかもその中で、我々は、「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」、煩悩を持って生きています。その煩悩を持って生きるということは、そこに必然的に三悪道という世界を作りあげて生きていると教えられています。
 三悪道とは、三つの悪の道と書きます。地獄、餓鬼、畜生という在り方です。地獄とは孤独という世界を作っていく在り方です。いろいろな関係を生きているにもかかわらず、心通わず、対立・争いを生みだしている世界です。餓鬼とは不満です。欲望の無限追求で、結局なにを持ってしても満足を知らないという在り方です。自分の欲望を満たすことを中心にしているため、周りの人間を利用し、手段にしていくという生き方です。畜生とは不安という世界です。傍観者的な生き方、主体性をもたない在り方です。それは徹底的な自己関心です。自分のことにしか、関心が向かない在り方です。
 この三悪道とは、共に生きている存在、共に生き合っているにもかかわらず、他なる存在が見えていないのです。「他者不在」という生き方なのです。
 念仏の教えによって見いだされた私とは、まさに「歴史社会に沈み、流され、三悪道を生きる者」として、言い当てられているのです。その事実に驚き、その生き方を悲しむ、傷むという生き方が、生きる力となるのです。三悪道を生きる自己を知ることは、そうでない「共に生きる」という世界を願わずにおられないのです。「だからこそ」と、立ち上がっていく力となるのです。私の「迷い」「間違い」を深く知ることは、そのまま「願い」、「意欲」も深くなるのです。

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