我々の生きる意欲は、条件的であります。自分の思惑、段取り通りに生活が進んでいる時は、さほど問題は起こりませんが、ひとたび、状況が変わり、自分の思い、考えが否定されていくと、意気消沈し「こんなはずでは、なかった」と、失望感に呑み込まれていきます。これは大変つらいことです。現代は、こういう辛さをかかえておられる方がたくさんおられます。
さて、前回は、その意欲喪失の根っこは、「いのちの道理」を見る眼がないということ、それは私の思い込み、私の「考え」の絶対化が原因で起こるということをお話ししました。我々は、自分の考えを疑わないし、自分の考えをなによりも信じています。
実は、それは同時に、この現代社会の価値観をも絶対化し、鵜呑みにし、受け入れているのではないでしょうか。時代の流れ、物差しを疑うことなく受け入れ、それをそのまま、自分の価値観にしてしまっているところに、意欲の喪失の根っこがあるのだと思います。
法然上人を中心とした吉水の念仏の集まりが、国家によって解体、解散させられました。1207年「承元の法難」といわれる事件です。その引き金となったのが「興福寺奏状」です。この「興福寺奏状」は1205年、奈良興福寺の僧侶たちによって提出された、念仏の停止を求める訴えです。「専ら念仏の教えに生きる人たちが、過ち、問題を犯しているので制裁を加えてほしい」と朝廷に訴えをおこしたものです。この「興福寺奏状」には、念仏の教えに集う人々の過失、過ちを九つ挙げています。逆に考えますと、念仏の教えに生きるということが、どういうことなのか、念仏の教えによって、生み出される人間が、読み取れるように思います。
その中で、第九番目に挙げられている過失が、「国土を乱る失」と言われ、国土、国を乱すという過失が、念仏を生きる人のあり方として、批判されています。念仏者が、「国を乱す」ということは、その国の方向性、その国のシステムや、価値観から、自由になっているということを表しています。当然、その国を運営する権力者からすれば、困った存在になります。念仏の教えをいただいた者は、その社会を中心とした善悪、優劣、上下などの価値を「無化」して生きることができたのでしょう。「無化」とは、「無意味」化です。絶対的な意味を持たないということです。その価値観から、解放されながら生きることができたということでしょう。そういうはたらきが、念仏の教えにはあるということです。
あらためて、いま我々が生きているこの社会とは、どのような価値観に支配されているのでしょうか?
先々週ご紹介した女性は、病に出会うことにより、「人さまの世話になり、迷惑をかける、何の役にも立たない、生きている価値がない」ということを、繰り返し私に訴えられました。この「思い」はどこから起こっているのでしょうか。
この現代社会は、経済成長を何よりも至上の価値として掲げた結果、生産性、効率性を上げること、成果が全てであるという社会。能力が問われ、資格の有無が問われ、商品として自らを高めることが求められ、他より勝れていなければならないし、競争に勝ち続けなければいという社会ではないかと思います。
そんな社会のなかで、年を重ねること、病に出会うことは当然、生産性もない、商品価値もさがり、能力も衰える、役に立たないと、思い込まされていきます。こういう社会の価値観で、人間を、自分を見ているわけです。
この価値観は、いのちに対するおそろしい暴力性、差別性を持っています。「いのち」そのものを感覚することが全くできなくなっているのです。
今の社会は、一部分を見て、それで人間全体を決めつけていくということではないでしょうか。一つの価値観で人間全体を決めつけ、固定化して閉じ込めていく在り方です。人間をその一つの物差し、価値観で決めつけることは、あまりにも、人間を、いのちを冒涜し、軽く、安っぽくしているのではないでしょうか。その生き方の虚偽性に目覚め、そのあり方から、解放されつつ生きるということが念仏の教えのはたらきです。