ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邉 尚子(愛知県 守綱寺)
第2話 「いのちとは」 [2005.10.]音声を聞く

おはようございます。
前回は、青春時代に「私は、なぜ私に生まれてしまったのか」、「どうして、私は、私に生まれなければならなかったのか」と自分のことを、なかなか引き受けられなかったというお話をさせていただきました。
そんな私に、光を与えてくれたのは、子供が授かったという出来事でした。
初めて「これがあなたの赤ちゃんよ」と見せられた時、私は驚愕して、一瞬、「知らん・知らん」と逃げだしそうな感覚をもちました。赤ちゃんが、おなかにいることも、うまれてくることも、承知で、楽しみに、待っていたのにです。
新しいいのちを、私の赤ちゃんといわれてもこの人間の形をした生き物は、だれがつくったの、この子は、どこからうまれてきたの。この子の誕生に、私は、何をしてやれたの。すべて・私の手の出せぬところで、いのちの営みは、おこなわれていたのです。
いのちとは何だろう、新たな問いが、はじまりました。いのちは、試験管では出来ません。いのちは、命ある者、両親になるいのちを縁としなければ、誕生しません。
この新しいいのちは、私たち夫婦を、父と母として、この世に誕生してきた。それだけじゃあない。私たちの両親も、そのまた前の両親も、この子の誕生にどうしても欠かすことの出来ない、大事な親たちだった。
こうして数えると、一つのいのちの誕生に10代さかのぼれば1024人、30代で1073741824人、それだけではすまない。この新しい、いのちのスタートは、地球に人類が誕生したところからもう始まっていた。
最初の人類から、この子にいのちのバトンを、渡してくれた親たちは一体、どれ程の数になるのでしょう。この子のいのちは無量のいのちの集大成であった。それだけでは足りない、人類が誕生する以前の、人類をうみだすまでの、いのちの歴史もこの、新しいいのちの誕生に、必要だった。それだけでもまだ足りない。地球が生まれてから地球上に、いのちが誕生するまでに、どれ程の時間が、経過していたのか。それらすべてが、今生まれた新しいいのちにとって、欠かすことのできない、どうしても必要な準備だった。地球の誕生以来、45億年という気の遠くなるような、長い長い時間、地球の全歴史が、この新しい、たった一つのいのちの誕生のために何一つ欠かすことの出来ない大切な準備として用意されていた。そのどこか一つでも、ずれていたら、もうこの子は、この世に生まれ出ることはできなかった。ああ、そうだったのだ。この子が生まれたということは、本当に奇跡のような出来事だったのだ。
全宇宙の全協力が「あなたはあなたになればいい」と願いをかけて、このいのちを、私たちに、託してくださったのだ。ようこそ生まれてきてくれて、ありがとう。たった一人の、誰とも代わることのないあなたは、地球の全歴史、周到な準備を頂いて生み出されてきたのですね。あなたは、全宇宙の全協力あげての願いだったのですね。それを仏様というのかな。仏様のいのち、無量寿のいのち、本願のいのち、私を、お母さんに選んでくれて、ありがとう。あなたの、「おぎゃー」という産声は、「はい。私は、無量寿のいのちを、わたしとしていただきます」という宣言だったのですね。我が子に語りかけたことばがそっくりわたしの身に、ふりかかってきました。
生まれたと言うことは当たり前、どうせ生んでくれるなら、もう少し、頭のいい姉のように賢い子にうんでくれればよかったのに。弟のように、もっとわたしに、関心をもってくれればいいのに、と自分であることが不足で不満で、あんなに自分を苦しんできたのに。見えるいのちにばかりにとらわれて、見えるいのちを支えるいのち、仏様のいのちをいただいていただなんて。勝手に生んだんじゃあなかったのだ。大きな大きな無量寿の願いをかけて頂いていたんだ。その無量寿の願いを「はい。私は無量寿のいのちを私としていただきます」そう返事したのは、私だったのだ。だから私は、この世に生まれてきたんだ。否定できない、事実の重みに、ただ、ただうなずくしかない、そんないのちとの対面を、させていただいたのです。

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