ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邉 尚子(愛知県 守綱寺)
第3話 「本当のわたし」 [2005.10.]音声を聞く

おはようございます。
自分の身をなかなか引き受けられないわたしが、うまれてきた我が子によってはじめて見えるいのちではない、見えるいのちを支えるいのち、願いのいのちのあることに気づかされたことを前回はおはなしさせていただきました。
「あなたはあなたになればいい」と全宇宙の全協力をあげての願い、それがわたしのいのちとなっていた。
そんないのちとの対面をさせて頂いても、なかなか「大いなる無量寿の願いが、私の存在であること」、「私が、私に生まれたい」、と自分で返事をして生まれてきたという事を、納得出来ないのです。頭では、そうだったのだと、理解していても、すぐにはこの身に、うなずけてこないのです。「だって」、「でも」ということばが、どうしても湧いてくるのです。そんな自分を抱えながら、日々の、子育ての生活の中で「どうしたらいいいのか」、と立ちつくすことが、度々起こってきました。そんな時は、必ず子供が、私の思うように、ならないときばかりでした。
困り果てている私に「お前は、この子をどうしたいのだ。どうなってもらいたいのだ」、こんな声が、どこからか、必ず聞こえてくるのです。わたしは、この子にいったいどうなってもらいたいのか。私の思う通りの子供になってもらいたい。本当にそうか。私の思い通りになって、それがこの子の幸せか。本当にそうか。いつも、いつも、私の思いは、あまりにも、私の都合に、満ちていました。それが見えた時、いつも「あなたは、あなたになればよい」という言葉が浮かんでくるのです。子供を見る目は、同時に、自分をみる目となりました。私は、ずっと比較することでしか、自分を見ていなかった。比較している時も、私を支えている無量寿のいのちは、「あなたは、あなたになればいい」と呼びかけてくれていたのに。初めて自分に対して、申し訳ないという気持ちが、起こってきたのです。ちょうど、そんな頃でしょう。聴聞の席で「信じられ、敬せられ」という言葉が、耳にとびこんできました。聴聞とは仏教のお話を聴くということです。わたしは、15歳の時、たまたまのご縁ではありましたが、自分で聴聞の席に身を運びました。以来、私が見捨てていても、仏様の方が見捨てることなく、いつも、私をつかまえていて下さったので、聴聞の場がきれることなく、与えていただいておりました。「信じられ、敬せられ」その言葉は、聞いていたかもしれません。それまで、ただの一度も、耳に残ることのなかったこのことばが、このとき、私を大きく大きく揺さぶりました。
「あなたは、あなたになればよい」と、全宇宙の全協力をあげての、大いなる無量寿のいのちは願うばかりではなく、「あなたは、あなたで在ればよい」と私が私を生きている、その事を信頼しているといわれる。事実、私は、この私を生きることしか、できなかったのです。どれ程他をうらやんでいても、自分を見捨てていても、自分を生きるしか出来なかった。そう、今、現に、私が生きているということは、大いなるいのちから、信頼されている、ということであった。いのちは、そんな私を信頼するばかりでなく私が、頂いたものに、腹を立てていようが、泣いていようが、それを私として生きていることに、敬意をもって見ていて下さっていたという。ああ、なんていうことだ。なんていうことだ。深い深い懺悔が、私の胸の奥底からわいてきました。と、同時に、熱い涙がほほを伝いはじめました。「何故、私は、私に生まれてしまったのか」、「どうして、私は、私に生まれなくてはならなかったのか」
長い間、私を苦しめていた問いの、氷が溶けた瞬間、私が、本当のわたしと出遇えた、尊い瞬間でありました。

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