ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邉 尚子(愛知県 守綱寺)
第4話 「念仏の救い」 [2005.10.]音声を聞く

おはようございます。
親鸞聖人は、念仏が救いである。「南無阿弥陀仏」が救いの法である、とおっしゃいました。南無阿弥陀仏とは、インドのことばであると教えられています。
南無とは、頭が下がったということ。あみだの「阿」は否定をあらわすことば。英語の、ノットの意味。「弥陀」とは、はかる、という意味の言葉で「阿弥陀」とは、はかることができない、はかられない、ということ。「仏」とは、目覚めるということ。「南無阿弥陀仏」を直訳すると、はかることのできない、尊いことに目覚めて、頭が下がる、となるのでしょうか。
「南無阿弥陀仏」と言う言葉が、中国に伝わり、『帰命無量寿如来・南無不可思議光如来』と訳されたとも教えられています。『帰命』、これは「命にかえれ」と呼びかけられているのです。呼びかけに我に返ってみれば、もうすでに、今、無量寿の願いが、私となって「あなたはあなたになればいい」「あなたはあなたで在ればいい」とはたらき続けていてくださっていた。その願いを、一身にいただきながら、その身の事実に背き、わが思いを、私と錯覚していた。全宇宙の、全協力をあげて生かされていたのに、その一番尊い事を見失っていた。そう気づかせて頂いた。
気づかせるはたらきを不可思議光。その光が、今まさに私を照らしてくださった。照らされて、初めて「南無」と、頭の下がる世界を、すでに、この身に頂いてあった。「南無阿弥陀仏」とは、法の名前であり、私の信仰告白です。私の思いをどこまでも破って、本当に尊いことを私の上に成り立たせる。それこそが、信心なのでした。
たった6字の「南無阿弥陀仏」という言葉が本尊であります、私の思いが、徹底して破られたところに信心がうまれます。「南無阿弥陀仏」と言葉にならない信心は、すべて私という「我」に汚されております。私の、思い通りにしたい。私を、大きくみせたい。他人を、誉めたくない。自分は、見下されたくない。『南無阿弥陀仏』は、そういう根性にしか立たぬ私に、「そういうおまえはどうや」と厳しく迫ってきます。あのことが欠けているから、このことが足りないからと、私は、ないものばかりに目をとられて自分を苦しめてきました。それが欠けていたらお前じゃあないのか。それが足りなければおまえじゃあないのか。
欠けていても、わたしは私を生きています。足りなくても、足りない私をいきています。私からどうしても切り離せないことは、私が、この世に生まれてきたこと。そうして、今、現に、こうして生きていること。その、あまりにも尊いことを、当たり前として、思いの私を、本当の私と錯覚して、自分自身を苦しめてきた。本当の私というものは、実態のない、いのちのはたらきそのものであったのに。そのはたらきに願いを見つけ、「南無阿弥陀仏」と名付けられたのがお釈迦様でありました。
全宇宙の全協力をあげて、無量寿の、いのちのはたらきが、「あなたはあなたになればよい。あなたは、あなたであればよい」と私をこの世に存在させてくださっていた。私がそっぽを向いていても、見放すことなく、信頼を寄せ、敬意をはらって私に、添ってくださっていた。
そんな尊いことを、見失って、我が思いをこそ本当としている日頃の生活。ああ、おはずかしい。なんまんだぶつ。ああ、わたしはなんて多くのつながりに支えられ、助けられていることか、もったいない。なんまんだぶつ。おかげさまで、このままの私で安んずることができます。なんまんだぶつ。
私の思いにしか立たぬ私一人をお目当てに、本当に尊いことは「南無阿弥陀仏」とすでに言葉になって、現れ出てくださっておりました。

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