ラジオ放送「東本願寺の時間」

黒田 進(滋賀県 満立寺)
第2話 「今を生きる」 [2005.11.]音声を聞く

おはようございます。今回は「今を生きる」です。これはあるご門徒の法事の席でのことです。その家の当主が挨拶の中でこのようなことを言われました。「いつだったか、住職の法話の中で、あなたは今を生きていますか。今を忘れて生きているのではないですかと言われ、ドキンとしました。本当にその通りだと思ったのです。」と。私はその話を聞きながら、改めて「今を生きているのか」と自分自身問いかけられたように感じたのでした。
考えてみれば、私たちの身体はいつもこの現在只今を生きているのでしょう。しかし、私たちの思いはどうか。今を離れて、昨日あったことを悔やんだり、明日のことを思いわずらったりしているのではないでしょうか。大体私たちは、昨日が過ぎて今日になり、そして明日になる。そういう過去から現在、そして未来へ時間が流れているように思っています。それに対して仏教では、過去・未来・現在というとらまえ方をします。つまり、過去を背景として、未来を内容とした現在ということです。過去、現在、未来は流れ去っていく時です。しかし、過去、未来、現在は、常に過去と未来を包んで現在只今ということ、つまり常に現在しかない今を生きているのだという受け止めです。ある先生は、このことを「永遠の今」というように表現されています。
私たちのあり方は、思いの中で、いつも過去を懐かしんだり悔やんだり、また、未だ来ぬ未来を夢見ながら、あるいは明日の準備に追われて、現在只今に立っていないのです。つまり浮草のような生き方です。今というこの時この場に根をはった生き方になっていないのです。そのような生き方をしている者に、「今を生きよ」と呼びかけているのが、この「今、いのちがあなたを生きている」という言葉ではないでしょうか。特に「今」という言葉が強く響きます。この私は自覚(めざめ)をうながすような言葉が「今」という言葉なのでしょう。
ところで、私たち浄土真宗の寺院、真宗門徒のご本尊は阿弥陀如来です。その相(すがた)は、「今現在説法」のお相であると教えられます。今現に在(ましま)して法を説いてくださっている、そういうお相であるというのです。ところが、そうは教えられてもそのことがなかなか受け止められない、うなずけないということがあるのではないでしょうか。それだけでなく、本堂の内陣の中央に阿弥陀さんが立っているのがあたり前、お仏壇の中に阿弥陀さんが掛かっているのがあたり前で、普段の生活の中ではなんとも思わずして、ただ手を合わせているのが私たちの日常のあり方ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
では「今現在説法」というのは、どういうことを意味しているのであろうか。そのことで1つ、私には忘れられないある先生の言葉があります。既にその先生が亡くなって何年も経つのですが、ある時私は先生に尋ねたのです。「先生にとってナムアミダブツって何でしょうか。」と。今思うと随分ぶしつけな問いかけで、冷や汗が出る思いですが、その頃はナムアミダブツがなかなか分からず、思い余ってそんな失礼な問いをぶつけたのだと思います。ところがそのとき先生は即座に「私にとってナムアミダブツは、お前それでいいのかという呼び声です。本尊の前に座ってナムアミダブツとお念仏申すとき、お前それでいいのかという声を聞くんです。」とおっしゃったのです。何か今思い出しても、その時胸につかえていたものがストンと腹底に落ちたような感覚を憶えるのです。ああ、そうなのかといううなずきです。
「今現在説法」ということも、ただ今現にましまして説法しておられるのだという、そういう説明ではないのでしょう。阿弥陀仏の相に、南無阿弥陀仏の名号に、確かにこの私を呼びかえす声を聞き取った、そのような私たちに先立って受け止め聞き取られた仏弟子たちの感動が、「今現在説法」という言葉を生んだのです。その意味では、常にこの私が「今現在説法」と受け止めて聞いているのかということが逆に問われてくるのでしょう。

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