おはようございます。これは私の30代の頃のことですが、高史明(コサミョン)という先生のお話を聞きました。この方は在日コリアンの方ですが、小説家で親鸞聖人の教えを深くいただいている方です。その時の講題が印象深く残っているのですが、「生きている者ばかりの風景の中で」という題でした。ちょうど1人息子さんを亡くされた頃でもあり、このような題になったのかもしれません。
お話の内容は、現代に生きる私たちは生を楽しみ、欲望を追及して、生きることばかり、生きている者ばかりに目を向けている。しかし、そういう私たち生きている者の背景には、多くの亡くなっていった人々のいのちがあるのではないか。そういうことを忘れて生きている私たちの生き方に対して、それでいいのであろうか、という問いを投げかけるようなお話でした。「生きている者ばかりの風景の中で」という講題とともに、印象深く時に思い起こされてきます。
考えてみれば、私たちのいのちは、先立っていった多くのいのち、そしてこれから生まれてくるであろういのち、そういう過去と未来のはざまの、この今という時を生きているのでしょう。大いなるいのちの流れを今生きているのです。
石川県の大聖寺に、和田稠という先生がおられますが、先生はお話をされる時、必ずといっていいほど、「不思議のおいのちをちょうだいして」といわれます。また、先生はよく「私のいのちではない、いのちが私なのだ」ともいわれます。この言葉を門のところの掲示板に書いたところ、隣の門徒の人が立ち止まって「よく分からんなあ」と眺めていました。「おいのち」といわれ「いのちが私なのだ」といわれる。何か日頃の私たちの考えを根底から問い返すような言葉ではないでしょうか。いのちは、私が勝手にできるものではない、勝手にできると思っているだけなのだ。実は、大いなるいのちを賜って、この私が今ここに生きている。そういう賜ったいのち、私有化できないいのちという感覚を、先生は「不思議のおいのち」といわれているのであろう。
ところで私たちが、日頃何気なく使う言葉に、例えばおいのちの御(おん)という言葉が実に多いことに気づかされます。御蔭様、御丁寧に、御身大切に、あるいは御飯、お米とか。これは丁寧な言葉使いといってしまえばそれまでなのですが、私はそれだけではないようにこの頃思うのです。この御の字は、はからずも賜った、それは決して我が物にできない、いわば他力ということをこめた表現であるに違いないと思うのです。私の思いを超えた大いなるはたらきに、深く頭の下がった先人の情(こころ)が、このような御蔭様とか、お元気でという表現を生んだのだと思うのです。
かつてある外国の音楽家が来日した時、記者のインタビューに答えた記事が新聞に載っていました。そこにその人は、現代人が忘れている大切なこととして、静けさ、丁寧さ、人間以上のものに対する畏敬の念ということをあげていました。今日の私たちの生き方、時代のあり様への厳しい問題提起ではないでしょうか。静けさを失っている、何事にも丁寧に接する、丁寧に生きる、そういうことが希薄になっている。そして人間以上のものに対する畏れ敬う心を失っていると。この言葉は、私たち現代人が、人間中心的な傲慢な生き方をしていること、自然でも何でも人間の豊かさ、便利さ、快適さの道具にしてしまっている。そういう生き方に対して、警鐘を鳴らしているといってもいいのでしょう。
私が生きていること、いのちあること、そのことが自然とか多くの人々によって支えられてあること、その事実に頭を下げよ、畏れ敬う心を取り戻せと、この私を呼びさます言葉であると私は受け止めています。