ラジオ放送「東本願寺の時間」

黒田 進(滋賀県 満立寺)
第3話 「呼びかけを聞く」 [2005.11.]音声を聞く

おはようございます。今回は「呼びかけを聞く」です。前回「ナムアミダブツというのは、お前それでいいのかという私への呼び声です」という、ある先生の言葉をご紹介しました。今そのことから思いますのは、私たちは実に多くの呼び声を幼い時から今日まで聞いてきたのでないか、また、これからも聞き続けていくのでないかということです。「おはよう」「こんにちは」にはじまって、「おやすみ」にいたるまで。また「こうしたらいいのでないか」「こんなことがあったよ」とか、もう1日の中でどれほど家族の中で、また隣近所などの交わりの中で呼びかけ合い、その声を聞いていることか。何でもないことのように過ごしているのですが、そういう中でいろいろ教えられ気づかされ育てられてきたのが私たちではないかと、この頃つくづく思うのです。
と申しますのも、これは私事になりますが、うちにいる3歳の孫を見てそのように思ったことです。生まれてから、いや、生まれる前から、どれだけ呼びかけられ続けてきたことか。名前を呼ばれ、いただきますをしようね、仏様に手を合わそうねと、手取り足取り両親や私共祖父母から繰り返し呼びかけられ教えられて・・・。そういう孫の姿を見ていると、ああ自分もこのように呼びかけられ育てられてきたんだなあと、改めて感ずるのです。
人は実に、顔を洗うこと、服を着ることから全て、何1つ教えられずにできるようになったことはないのだと気づかされてまいります。それがいつの間にか、自分でできるようになったつもりで、あんなに教えられたことなどケロンと忘れてしまっているのです。「自分1人で大きくなったつもりで」と昔母親に叱られたことが思い出されます。人は生まれおちてから命終わるまで、呼びかけられ続け教えられ続けていくものなのですが、そのことがまた素直に受け止められないのも事実ですね。
これは大分以前のことなのですが、あるお寺でお話をする機会がありました。その席で私は人と生まれ、人として生きることについてお話する中で、お経に説かれる優曇華(うどんげ)の話をしました。優曇華は霊瑞華(れいずいけ)とも訳され、3千年に1度咲く花とされ、あいがたいことの喩えとして説かれます。人の身を受けることも、この3千年に1度咲く花のように、まことに出あい難いことなのだと説かれるのです。そのことを通して、私たちが父母からいただいたこのいのち、この身を本当に受けとめることの容易ならないことをお話したのでした。
そして終わりまして帰宅して、その夜のことでした。1人の女性から電話がありました。「今日お寺でお話を聞かせてもらった者です」、ということでした。その方が云われるのに、「3千年に1度咲くようなできごとが、人と生まれるということなのだというお話を聞いて、亡き母親のことが思い出されたのです」と。特に晩年、年老いた母親と一緒にくらしていて、イライラすることが多く、とても辛くあたり、そのことが思い出されてきまして、としばらく沈黙されました。どうも受話器の向こうで涙ぐんでおられるようでした。私も何か胸につまされて、じっと聞くしかありませんでした。
この女性は、日頃忘れていた母親の姿、自分を生み育ててくれたこと、そしてだんだん年老いて家事のことなど充分できなくなってきた、そういう母親を疎ましく思った。その自分の姿が慚愧の年とともに一挙に呼び起こされてきたのかもしれません。そしてそのことを誰かに話さずにはおれなかったのでしょう。
私たちは常に、亡き親はじめ、現在只今も縁ある多くの人々の呼びかけを受け続けているのでしょう。しかしまた、その声がなかなか聞けないのも私たちの姿です。そういう私たちに聞く身になれと呼びかけてくる、いのちの声がナムアミダブツの名号であると教えられているのです。

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