おはようございます。今回は「いのち」ということです。いのちという言葉は、いろんな意味に使われます。文字通り息をしているこの生命ということで使われます。また、仕事が私のいのちだ、あるいは子どもが私のいのちだと云われる時は、いのちは生きがいということと同じような意味で使われているのでしょう。
ところで、生命の生という字は生きるという字ですが、イノチとかウマレル、イキルと読みますが、もともと草が地上に芽を出し、発育する形を表した字だそうです。そして生命の命という字は、イノチとかオオセ、ミコトノリとも読みます。このことから思われますのは、草や木が芽吹きのび育っていく様子に、何か不思議な力を感じ取り、人のいのちの生まれ育っていく様子を重ね合わせて感じ取ったのであろうと。そしてそこに大いなるはたらきを受け止め、畏敬の念、つまり畏れ敬う心を抱いた、遠く古え人の情(とおくいにしえびとのこころ)の深さが思われます。いのちを生命として表現したのは、単に生物的な物としてのいのちでなく、長い長い生命の歴史、そこに大いなる不思議の力、はたらきを感じ取り表現しようとしたのだと思うのです。
「今、いのちがあなたを生きている」という呼びかけを聞くとき、何か私の思いを超えて、大いなる生命が私として、私自身を生きているのだと、そういう事実に気づいてほしいと呼びかけているように感じます。
ところで、私のうちには3歳と4ヶ月になる2人の孫がいるのですが、生まれるまでは思いも及ばなかった1つのいのちが生まれ出て、日1日と成長していく姿を見ていると、「ああ、不思議のいのちがここに孫としていきているのだなあ」という感慨に包まれることがあります。そうして、まさに私のいのちでなく、いのちが私なのだ、いのちが私となって、こうして生きているのだなということが素直に感じられてくるのです。
ところで、先程生命の命は、イノチ、オオセ、ミコトノリという字であると申しましたが、そこには呼び声、呼びさます声、うながしという意味があるのでしょう。私たちは日頃生活していて、フッとこれでいいのかな、自分は何のために生きているのだろうという思いにとらまえられることが時としてありますね。また、もっとはっきりと、亡き父が母が思い出され、その声がありありと聞こえてくることもあります。
私は時々、京都の東本願寺の同朋会館で、全国から奉仕研修に来られる門徒の人たちと過ごすことがあります。一昨年のことですが、三重県の伊勢市から来られた方々とご一緒した折のことです。夜の座談会である方が話されたことが、とても印象深く残っております。70歳前後の男性でしたが、「こうして本山に来ると思い出すことがあります。私は事情あって、祖母のお世話をしたのですが、亡くなる前、私を枕元に呼んで、一言『ありがとう』と大きな声でいったのです。その時、背中に電気が走ったのです。そして、一体祖母はどういう気持ちで逝ったのか、その一言の響きがなかなか受け止められないまま、でもその時の感動は今も残っているんです。」というお話でした。その方は、おばあさんを亡くされてもう随分年数がたっていたようでしたが、今もありありとその『ありがとう』の一言の響きが背中に残り、受け止め続けておられるのでした。
その方にとって、いのちとは亡くなったおばあさんの『ありがとう』の一言、その声なのでしょう。その一言、声がその方を呼びさまし、問いかけ続け、そして聞法の場に足を運ばせているのだと私は感じました。
「今、いのちがあなたを生きている」、そのいのちとは、呼びかけ、私を呼びさます声、うながしという意味があるのでしょう。